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揺れて定まる

突然ふと、湧いた言葉って一応書き留めても、解釈が「これで良かったかな?」と思う事はあります。これは確かこれで良かったと思う、うん。

受け容れる難しさ すべて「受け容れる」の一言で説明ができてしまう

自分のやった事(意識した事してない事全部)、の「結果」を受け止める事って、頭で想像するほど簡単でもなく、自分の中から抵抗・反発が出る。心で受け止める用意があっても、カラダが硬くなる(緊張する)など、きちんと反応が出るから分かる、「○○と思ってるんだな…」と。


例えばこれが、良い事した・悪い事したなどの自覚の上でならば、結果も受け容れやすいけども、無自覚で行われている「そのこと」の報いは、中々受け容れられないし、受け容れたくもない。

良い事は「ありがとう」と受け取れるけど、イヤな事は「断固拒否!」したくなる、だって意味不明だもの。「ナンデ?」って。

私には深い知識があまりないから、イヤなものはイヤという姿勢をガッツリ通って来たし、聖人のように「あ~、そうですね~」なんてやった記憶があまりない。


そんな私でも、昔よりは「受け容れる」という事が少しずつ範囲を拡げて出来るようになっている。未だにアタマを多く使う事なく、自然の流れに任せた状態で。

アタマはあまり、良くなり過ぎないで(*^^*) 沢山働く事が、余計に難しくするケースもあるよね。

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ありがとうございます。

(うねり)流れ。理 道理 真理

”自分”から感謝「ありがとう」を発信すると「こだま」として返ってくる。

初めてじゃないけど、「その流れ」が今朝は”別”に見えた。浮き上がるように(?)、特別に。ありがとう。


そんな事をノートに書いていた。スマホで保存していた動画を流し、PCで調べものを。

動画の冒頭に「まいたものを見ればわかる」という言葉が入ってくる、「あ、これだ」。


「力がある」と聞こえれば、読んでるところは「不思議な力を有する」など、目と耳の情報が同時にシンクロする。

事象を経験してノートに書いていると、そのそばから同じ言葉がポンポン入ってくる。


こんな事を今まで繰り返し経験してきたから、不思議な事象、説明が難しいと言われる事も、私は「確かなもの」として信じている。

このタイミングの出来事を、既にあるもの「漂っているもの・氣」があるから掴んだ、と表現する事もある。氣を掴もうとしている訳でも、意識上感じた訳でもなく、いつも自然に行われている事。

そして、この世界で言う時系列的には、自分が発したから、事象が起こったというようなケースもある、タイミング的にはの話。

 更に私は、そうなる事をどこか(自分が)感じていたから「発した(動作した)」とも言えるかなぁ、と結局答えなんて出ない。


これを説明できる考え方が世の中にあったとしても、それもどうでも良い(笑) 私にとって、「これはどういう事なのかな~」と、ペンディングでいい。揺れに揺れて、迷ってもいい。

私はかつて外の情報に「正解」を求め、解らず、迷って、自分の内側へ入る事に集中していった。「何が、どれが本当なの?」外が解らなくて、自分で確かめていって、自分を信じた。

私は「迷う」という事の利点を少しばかりは知っている(*^^*)




「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!