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他人事がチャンス

この数日、以前のように食事前に何を食べたいのか”イメージ”する事が出来るようになっていた。

これは、私の「食欲」に直結していて、このイメージで「あ、それにしよう」と決めているから。

何を意味するかって、「欲を感じる事が出来ている」という自然な状態、実感が湧いている、という事で嬉しい事だった。

そして同じくここ数日、私にとってのサイン「44」は、強いサポートと導き、を意味していて、それが入ってきていた。

何度も重なって来て、私は漸く口に出していく。
(また長くなってしまった、カタジケナイm(__)m)

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クリスタル音叉Dをかけて寝た一日目、寝る時間も起きる時間も私と違う、主人の口から聞くのは翌日の事になる。

そして二日目の夜もかけて眠り、その日は私は夜中に何度か目が覚めた…小さな音だけども、「うるさい」と感じた。浅い眠りで目が覚めた時に「そう感じた」、かどうかの前後は私には判らない。

エピソードがあるとは思ってなくて、からかい半分で「昨日は何もなかったんでしょ?」かなんか、適当に主人に聞いた。

「それがさ~…」

(ホントに?二日もあるんだ…)

ストーリーを全部話してくれたけども、私はその時、”他人事”と思って聞いていて、詳細までは憶えていないけども、

・たくさんの子供の「目」が追いかけて来てまた逃げている

・大きく揺れて建物が崩れまくるその中を、みんなで逃げている…冷静に対処してるから平気、恐がってる訳じゃない。最後はやっぱり”光が差す”。(これが私の”印象”にだけ残った一致したもの

みたいな。


他人事と捉えているのと、私は「うるさい」と感じていたから、3日目は止めようと思っていたCD。ただちょっと主人に聞いてみた…

「ちゃんと眠れてる?なんか寝起き悪いとかない?」

「オレは夢と思ってないし、”なんだコレ?”って見てて楽しんでるから…。自分では今までと変わらないと思ってるよ(^_^)」

その言葉を聞いて、「もう一晩やってみよう」と決めた。ボリュームはもっと下げて、ホントに小さな音にして。

翌朝。本当に、久々の心地いい寝起きだった。

穏やかで、自分の心を感じられて。天気は予想外の”雨”が静かに降っていたけども、自分の心が静かに流れているようで、それも楽しかった。

(土用、明けたな…)

どの位、この状態が続くのか判らなかったし、この状態で”土用明け”の実感を得る事はないだろう、と思っていた事がみんな外れていく。

11/7の日記は、朝のヌボータイムの事が書かれていて、(途中から)

私の今までの心の寂しさを流してくれるように、私の心を映しているかのように。雨は優しかった。

だから私は自然が好き

何も反応しない

何も言ってくれない

全てが”私”の心だもの 

ありがとう

としている。


日中、ふと思い出して、いつもしないlineを主人に投げておいた。

「ぐっすり眠ったかい?」

忘れた頃に返信は来ていた。

「今回はなんもなかった」

と。

ここで、私は私の中で確信する。

「主人を通して視た、”完全に私事”」と。

主人は主人での”中の事”としてあるかもしれないけれど、私が観ている世界に於いて、主人を通して映し出され、”私の中の事”を投射して見せてくれた。と”自覚”ができた。

催眠的な事、影響関係の説明から書くことはすっ飛ばして、私の感覚で捉えた書き方をしてしまうと、

私のアタマに見せてしまうと、私は必ず私のフィルターを通して解釈してしまう。そのまま捉えているようで、それが出来ない。だから、同じ環境にある”状態”を使って、他人(主人)を通せば、私はそれを他人事として、自分のフィルターを弱める事が出来る…「自分を客観視できる」、と捉えた。


その時、大まかに捉えていた主人事を自分にすんなりと置き換えて、気分が良い事もアタマの中がいくらか整理された事など、モヤがかかった状態からきれいな明るさを感じたのだろうと、思った。

「自分は全て知っている」

というのは真実で。9月のエアコン”掃除ランプ点滅”とか、約10年ぶりの”取説引っ張り出し”家電トラブルとか、【つまり(詰まり)掃除してください】という事象(過去記事)は、全て予兆、”教えてくれていた”と、キレイに結んでしまえる。

こういう事を何度も経験するから、起きてくる事を偶然で片付けられないし、起きた事に囚われ過ぎず、でも無視はせずに…と追跡する事で大きな自分の流れが見えてくるのだと思っている。

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表の層(見える所)での「陰」を開き、少し慣らして”見えない所”に入っていく。

表の層と対になる「大きな全体」としての陰に入っていく。

「“自分”と把握できるもの」はホントにこの「実感のある部分」だけであって、ふと観ると、自分以外の存在は全てが対になった自分の”陰”(影)と見えた。

そこはアタマの理解をすっ飛ばし、ただ観るだけで視えてくるものがある。

浮かぶ?湧く?ただその様に見えてくる。

いつも色々書いて、つくづく思うけども、「言葉にしているコト」は、今までたくさんある。そしてそれは、理解しているとかいないとか、というより、無意識側から意識側へポンッと放り込まれたもの、と感じる。

だから意識側からすれば、「ふと」湧いたという感覚になるし、いつも”全体”は、こんな事をしている。

ハタラキは、私は一時も同じ場所になんていないだろう、と思っている。

私の得意は理屈から落としていく事でなく、自分の中からの”実感”として捉えていく事で、やっと肚に落ちる感覚を掴める。

充分に思考できる人とはタイプが違うので、これは私が大切にしたいモノ。たまに”アハ”を感じて喜びながら。


そして。

逆説的に考えれば、

「分かる」と決めたものほど、思えたモノ・コトほど、

「”分かっていない”がある」と、どこかで意識に入れておいたらいいと思っている。

「分からない」のが、「自分以外」なのだから。

「みている時」、ただそれの時がある。

意識するともなしに、それはただその状態になる。

その時、この目は必要ない、使っていないもの。

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全てが私の中の事、と書いた連なりから、ここへ繋がっていく。

私の探していた”同胞”は「影」。

全て自分の中の事、全て私の世界。

「同胞を探している」

自分の中から出る”答え”である。

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※私はその日の夢の中で、揺れている中にいるのか、実際に揺れてるのか判らず、、、の印象だけが残ったのをメモしている。そしてその日は、父が夢に出て来ていた事もメモ。

その話を主人にした時に、「あー、やっぱ出た~」と。

聞けば夢に出たのではなく、主人はその日、父が以前に住んでいた近隣に配送があって、「なんか言ってくるんじゃないかな~」と思っていた所、G(父の事)の話をされたと。

この辺りもヒントになって、「私の内側が外に現れている」という実感が、確信に近く視えた。

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休むつもりで、その為のアウトプットをしているのだけども、今まで通り、どんどんそれは途切れることなく出てくる(*‘∀‘) 

それだけ”自動的に”思考というものは行われてしまっていて、人のアタマはよく動いてしまっている。

休む前に私があと触れたいと思っているのは、私のシンクロに対しての考え方と、全ては「記憶」という事、この2点です。

少しゆっくり庭を片付けたいし、本を読みたい…。また頭を使う事になるけど、そうして”確かめ”が出来るタイミングなのだろうと、思ったりしている。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!