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対象から”私”を外す

火曜日の晩、眠る前には、「そうか…、その人の”ひとつ”ができ上って、また少しずつ壊れて動きがバラバラになるんだ…」と思った。

このひとつは、個におけるそれ。誰かの機能とは関係のない、その人におけるひとつの形を形成し、再びその繋がりがバラけてゆき還っていく。

ただそんな風に思った。

・・・ ・・・ ・・・

そんな事を思うと、やはり逆のことは浮かぶわけで、「いかにこの”通常”を保てる状態というものが、色々を重ね合わせてのことか」という事。それが壊れた時に、反対を感じることで分かる。一体化している時というのは、殆どそれに呑まれているのだから、そうでない時じゃないと分からない。

そこに(自覚する)意識を向けている時では、この”自分”というものの範囲で見つけ出されるけども、そこから離れた状態、急に・ふと、などは自覚していない時に押し出されてくる。それを自覚する自分が拾うから”認識”される。

この自分(私)という自覚のある者と、機能・ハタラキというこれの存在と、ロボットと操縦(士)の関係で説明するものもある。簡単にはそれで理解ができる。

”やる”という事に時間は多く必要になるね。


昨日少し浮かんだままのことを。”シンクロ”。

私は今まで、自分の世界のことと、外の大きな世界(社会)のこととを主にシンクロのことの気づきを書いているのだけど、これは”人のアタマ”という所のシンクロの話。この書き方は私の中では何度か観ているけれど、どうにも言葉で連ねることが難しいと感じていて書いていないと思う(一度内容的には触れている)。

昨日は、「それを書こうかな…」と思ったわけなので、書き出してみるという流れ。

例えば、この自分の考える・進んでいる・想像する…何でも良いのだけど「個」という者の小さな世界がきちんとあって①

外の、別の、何か遠くに自分が意識している、大して意識を持つことなくだけど意識には置かれている、という様な状態があって②

このふたつの状態では、対象にされているその「個」への意識より、「そのコト」自体の方に自分の意識が使われている状態があって、その時”そこから”次に想像することは、「この自分の世界のこと」という小さな自分の個、世界において考えればいいだけの、”外”を意識しない状態において、しっかりと自分の発信(する世界)と、外の②の世界の対象側の発信とでシンクロする状態が出来上がる、というもの。

まず、そんな状態があるのだけど。


それは、自分または他者という”人”に意識を向けていなくて、ほぼコトの方へ意識を向けている状態なので、そこから連なることを自分の頭の中で考えるだけで、外の”コト”から別の世界で連なっているモノと、一部にせよシンクロ状態が続く、というもの。もちろんこれは、私の視た(感じた)所からの説明による。

つまり、人は自分または他者という「人」においての関連することの思いや考えを持ち出して対象をみる時(これをコトと言っている)、それは人が通常に持ち出すことの様々を区切り、切り分け分割した状態よりももっと大きなままの「柄」のままの世界に近いソレを視ているため、その範囲の中に治まっているそれらの連想されたものが、何らか”一致する”事が多い、という解釈。

人の持つ、分類され自分によって分けて見ることの前の状態、大きな意識のままの(それに近い意識の使い方)によって、連想されるものは、重なるものが多い、ということ。


ここ最近でも書いている様に、私たち人は、個によってそれぞれ様々な「区切り」を持っていて、その自分の目線で自分を含め世界を見ている、解釈している。その「個」の目線ができる前の状態、分離しない状態にする事で、必然的に”合って”しまうというもの。

この分離しない状態を意識的にするかどうかは問題なく、というより、やろうとしてできるものでもない様に私は思うけども、でもその「やろうとしない状態」が「やれる」状態をつくるので、テクニックとも表現は出来るのだけど…、表面的に言えば”気にしない”という自分を保つことと思う。

私たちは気にしない状態をつくること自体が難しくて、どうしてもそれと分かれば気にしてしまう=意識してしまうのが普通なのだけど、このアプローチに必要なのは、私の経験からしか話せないけども、「自分側を整えること」なのだと思っている。


この自分を整えるは、見つめ続けて何度も自分の皮をむきむきし続け、剥いで削いでとやって行く地道でしかない事なので、あまり真剣にやる人などいない、年数の大分かかる事だから。

だけどなんか出来てしまった、味を占めたなどのうま味を感じると、それを求め始めるので今度は「そうならない」へ傾く。それを知っている人は、味を解っていて、そのうま味を捨てる。そこに意識を置いているからその状態がある限りシンクロするのが当たり前なのだと思う。

人は”分ける前”は、同じようなものをみている、連想することは似たようなものだという事、そこから「個」という者が育ち、個別の目が生まれ、その世界を見続けているという事。元々一体、一つというのはこういう事という風に私が考えている。分けるのはニンゲン。

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今まではこの自分と外というような目線で普通に見ていたものが、昨日は内側を通してというか、深く下げて行ってというか、その様な見え方がアタマに見せられていたので、それを言葉にしていった。

個によって分け方・分かれ方はどんどん開きは大きくなるけども、その前の状態からであればそれは”世界”に近くなる。言葉と言う意味に近寄らない、わたくしという個が除かれる、”その状態”があることで、自然な重なり、一致はただある。”その状態”は、頭の状態も同じく言える。

固有のリズムにする前の段階に区別はない。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!