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「元」でできる工夫…

なんでもが、「元」というのは当然あると思っていて。

その元から、どの方向にどの様に開いていくかの詳細は、人には分からないものだと思う…。

元があり、そこから展開していく――という事が分かっているのなら、その元の所で何か工夫があればよい、ということになるかね。

・・・

昨日のnoteからやんわり引きづっているかもしれない。それを”思う”までは、まったく違うことがいくつか頭を流れていき、”ソレ”にしようかな、という所で軽く思っていたのだけども、そんな事は吹っ飛び(仮眠後のぼんやり頭だったので既に忘れた)、冒頭のこれは”これにしよう”も何もなく、そのまま書き出していっている。

その時ここから、何をどう展開し繋げていこうか…なんて全く考えてなくて、そのまま動作を引っ張ってくる(動作と繋がっている)。

もしかしたらそれは、考える→やるという一連の動き流れという把握より、よっぽどセットにされているような、この”私”がそんな事を一々考えてやることなくそこまで自然に流れて行くような…、そんな状態があるかなと思った。

以下、”ぼんやり頭の忘れた”も絡めて少し繋げていく。


仮眠後の頭がまだはっきりしない時に、少し記事を読んでいた。ただ流し見ている適当な記事の中には、「まだこんな世界があるのか」と多少不愉快な気持ちになったのを拾った。

そしてすぐに、「昔は私だってそんな世界に、それをそうあるものと真面目に捉えていて、”そこにいたんだ”」という事を観ていた。正直言ってくだらない、本当に目に触れたくないと思った。

多分そこからだと思う、冒頭のことが後に押しだされたのは。その「何か」を目にしたこの自分から反応が出る。この”反応”は「あくまでも読み手の自分側の話だ」ということは、今までに散々書いているし、今回はそちらでなく「元」、その記事の存在の方に私の焦点があった。


その様な反応があるという事実があるのだから、快不快というような「心」の反応に極力触らないような”元”というものもあるわけで…。そう考えると確かに、自分が快や不快のどちらにもあまり左右しないようなそれと言うのは世の中にあるよなぁ…と。

確かにそういう「元」は、完璧にそうである事はムリかもしれないけども、極力という形でそのスタンスを持つことは可能だと思った。内容自体が淡々として、いわゆる”感情”に触れるものではない”というような、そんな”元”の存在。それってとても大切なことなのだと思った。

心に触れなくても今度は思考、「考える」ということに引っかかってくる事は当然にあり、またこうして別の次元で自分というものはそこで”左右”するわけで。結局何かに対してどちらかへスイングした状態があるから「分かる」という事になる。


心も頭も揺れないで済む状態は、「分からない」状態なのだと私は思っていて、分からないものは自分の内側が揺れようがないという事。どちらにも触れない(振れない)。私は個人的にその状態が吸収しやすい(自然とそういう時は取り込んでいることが多い)と感じているのだけども、分からないからの吸収しないという、反対の動きが出るものもあると思うので、正解ではない。

同じ目の前のものを目にしても、個々の内側の反応は全く正反対にもなるという事は、常に感じている。

この「反対」になるという事は、本当におもしろいというか、確実なセットの存在で、互いはそれとある事で一人前という表裏の関係にあるから切り捨てられない。

昨日の記事内のワンコの興奮(状態)、それがなければ極度に鎮めるということは不要と思うこと、よく眠れるのは眠ること直接への工夫に限らず、そこにつながるような流れ、「”眠る”ような”お膳立て”」がきちんとどこかにあること。そんな風に思う。


私たち人は、目につきやすい目の前のことに焦点を当てて、それに対しアレコレする「直接」が多いけども、そこへ繋がるまたはそれとセットになっている”対”の「間接」というものをいじる・動かすことで目の前のことに動きを出すことが可能。

これも以前から何度も触れているけども、間接というのは言い方を変えれば機能に従順ともいえて、その様な運びは自然とそうなる流れの中にあるので確率が高い、精度が高い…などと表現ができるかもしれない。

直接の効果は「分かりやすい」こと、意思・思考から繫げて見えやすい為”実感”を得やすいことなど、”人”としては明快で喜ばしい…、と感じられる。


もう一度、ほんの少しここで考えてみると、「何を成したかったのか」ということ。恐らく元はここだったのだと思うのだけど、人はいつの間にか気づかぬうちに「自分の思・考を優先しそれを実行する事を目的とする」という所に替ってしまうということ。

それが悪いわけじゃないよね。見える・分かる、即効性などその事には沢山のメリットがあるのだから。

だけど多分―――

本当に”成す”という事に焦点が定まると、”替ってしまう”ことなど起きない。人の自覚側、仮に”オモテ”だけを動力にするよりも、”ウラ”と一緒にセットで丸々の力を動かせた方が成すものだから。

セットというのは、揃ってひとつになっている。

余談)

”忘れた”と言いながら、それも含めてと途中で触れたのは、例のごとく書いているうちに、頭の中にやんわりとした線が軽く出ているのを掴んでいるから。(表現はもちろん比喩)

「あ~これだ…」というのが、書いているうちに同時にサラ~っと視ている後ろを通って行く、はっきりとコレと特定しなくても”ある”ことは、その時視ているので書いた。

そして今こうしてこのパートを書いていて思うのが、「(通常は)憶えていること」を記憶として、それらを使おうと組み立ての材料などにしているわけだけど、”忘れた”という時、データがなくなったわけじゃなく、弱かったから、通常の引き出し方では引き出せない(引っかからない)状態だった、と考える。

引き出したい、「確かに”私”はそれをした」という存在だけは残しているその”記憶”は、通常の引き出し方ではやはり出にくいということ。情報(記憶)を迎えに行かない、”ここ”という場所で待つというのは基本。流れやその周辺に触れていると、なんとなく”あ~これだ…”というのを「感じる」程度の、記憶のされ方・存在というものがあると思っている。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!