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その配列が”自分”

これをね(昨日の記事)。
この流れ全体が、そのまま”意識下”で分けてみているものが、段々と自覚できる”自分側”にみえたという感覚だった。

ただしこれは、それを”自分”と自覚しているとか、認めるとかのしっかりとした認識の”前”の感じで、まだ他人事のような別の世界として視ている感覚も残っている様な、そんな感じ。

ここはどのように書いたら良いのか分からないけども、例えば層のように視ていた向きが、混じり合ったのか、それとも別々のものが重なったのか、頭の中の状態だけではちょっと分からない。その区別のしようがない。


元にしている画(脳内)があり、一旦は表現、文字にしてみて、それを読むという再取り込みを行う事により、画との照合がなされたわけではない。ただ”読む”事によって自分の中に”入力”されるもの、そこからまた視えてくるものを視たらば、それは少し「自分に寄った」。

という事は、元々頭の中から出したものを文字に現わし、それを再びこの中へ取り込み、既に入力したものは”変わってしまっている”という風に今日は(昨日の事)みえた。

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忘れないように先に、昨朝の”感じ”を書いた。(”変わってしまっている”としている感覚があるという事で、”元をベース”にしている事が分かる)

一昨日へ戻ると、以下のような感じ。

「外と内」が同じように重なった。そもそも”外”と感じているだけの、始めから脳内の話(メモより)。

実際に、外という屋外を見ている訳じゃないけども、私たちではどこか勝手に外部・内部という風に分けていると思う。少なくとも私は確実にそのように捉えている…、意識が。


で、何かを見るとなしに見ていたそこからその背後の部分を視て(感じて)、書いていた訳だけど、そしてそれは全く、客観する別ものとしてしっかりそれを視ていた訳なんだけども。

距離があったものが自然と距離を詰めてくるという、その結果に「自分のこと」の様に見えてくるというのは、正に普段は自覚に上がらないこの自分の焦点にあるもの、一時的にもフォーカスしていること、というのを一旦表現で表に現わすことで”見える化”され、それを再取り込みして、自らが認識できた、という流れだったんじゃないかと思った。


通常は、自分で自分の無意識部分、奥でフォーカスしている事などは、訓練でもしなければ見えない、それが”無意識”なのだから。

だけどそれを自分で行うとすれば、時をズラす事しかなくて、ズラした時がまた自然とエピソードによって再び”合わさる”ような…。


この”内側から”という手段でなく、外からの情報(知識・ノウハウ)によって、内側の見えない部分を観ていくということが、”外は自分の投影”という見方・考え方であると思う。

私はその入り口からはどうしても入りたくなく、自分の行った事・湧いた事から観ていきたいので拘る。というより、これが自分自身をまた前に進めるエネルギーになっている事は間違いのないこと。

こうして”内側”に入ったり、少し表にヒョッコリしたりして、いつも行き来している。


8/30メモ

段々と”そのコト”が、どうでも良いとなる。

投げやりでなくて、その事は”どちらでも”良いこと、というどちらかと言えば丁寧なもの。

それは、表面は本質でなく結果という顕れであって、その奥を視ると、違うものが観えてくるから。

その流れる全体を観た時、表はとても小さくてその事に焦点を当て続けることは、”どの様でも良い”と感じる。

その中で、その大きな全体があるという中でも、具体に人が拘る時、それは執着したい個がそこにある訳で、そしてそれは単なるクセによる焦点でなく、周りを剥いで剥いでその上で尚。そこにしっかりとある自分を支えるものとしての、個による執着を見ると、私は美しいと思ってしまう。

強さも、奥行きも、輝きも全く違う。
それは人の、素敵な光なのだ。

・・・

一番初めに感じた、「層」に近づけた言い方も少し書いておくと。(※どこまでも”イメージ”の話です)

本当は、(イメージ)太いベルトの様な帯の中の、ある部分担当の”一部”というただそれだけという、それに過ぎなかったものが大きく見えたり、小さく見えたり、又は別場所の一部が見えてきて”主”になった様に見えたりするもの全ては、「初めからこうだったんじゃないか?」と感じたものだった。

それをフォーカスした時は、1段上がる(そこから切り取られる)から“層”という平面でなくなった表現。実際にフォーカスした時は上がるではなく、逆に次元は下げている訳だから、言葉を付けて書くことは、こんなに“混乱”するものになるよね。

この「初めからーー」と、内側で私が感じた事により、内部から別のモノが立ち上がって来た、という経緯なのかもしれない。

もうここまで、あちこちの時系列を崩して書くと、全く取り留めのない話になるけども、これこそが「本来(というかどうかは?)脳内に収まっている”情報”じゃないの?」という風に言える。


それがこの「私」という人の”パターン”として繰り出されてくる「記憶」、外部からの刺激(入力)に対して、『アタナはこうですよね』という様な反応という並べられた記憶=自分。

自分の中から”湧いたこと”として書いたものがまた自分の中へ入り、それが”入力”となって自分の今までの情報が、簡単に組み変わるのを見ている様な感じ。

どこかから付け足され、こうして書いていると広がり過ぎるので、これはここで終わります(*^^*)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!