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変わる景色を見る

昨日の記事の終わり頃に、書きながら別の”部分”が少し視えたのだけど、触れずに終わりました。理由は、ちょっと言葉という”同じライン上”で表現できるかが不明だったから。

そういうのって説明という言語を付けまくっていくと、ズラズラ長くなるので、昨日はやめた。

今日それに触れていこうと思う・・・、完成表現は見えていない。昨日の画がただ一つ視えているだけ(*^^*)


まず、大まかなイメージ部分を言うと、「層」というのか、それらの階層の様な違いはあって。だけどそれは本来一枚ものの様で、その一枚から抽出してきた”ある一部分”となっていて。

それは全く正しいとか、(今となっては)古めかしいものとか言うものじゃなくて、「元々、そうだったね」と、その存在が(仮にも)ただ大きく一時的にその様だっただけであって。

それは今まで通り”そのまま”で良いわけで、決して時代の変化・流れで何かに取って代わられてしまう様なものではなくて。これからも「そうで良いよね」というものだった。


それがもし今後、小さく見えるような存在になったとしても、十分に存続して良いのは勿論、そして小さくなった(と感じる)事は、決して”間違いだったから”という事じゃない、ということ。

動いていくモノに人は目移りしていく。イキモノの性質と感じる。その速い流れの中で、十分にソレとして存在させていく事は、余計に重要なのだ、とザックリと感じていた。(古いモノに固執するという意味ではなくて)


ちょっと違う言い方を加えていくと。

私自身が、時代の流れを「一本線」で観ている所があって、いや考えまとめればまた”ヒトツナガリ”になってしまうのだけども、「一本線」は、何か1つに絞るような雰囲気を多分に含んでいた様に思えたもので、そこから同じような”ひと繋がり”でも、今度は”分類”はされても、取って代わるとか入れ替わり下火とか、その様な雰囲気をそこに感じなかったものだった。

もちろん、この私の脳内で視ている事なので、私の”配線”が多く絡んでいる訳だけども、見えない所にある自分の”概念”を知り、そこから世界を”普通に”見てしまうのだな…と思っていた。

・・・

上記の状態から派生しているのか、この後には、”区別”という事にどこかフォーカスされている様に感じた。

以前書いたのだけども、「分ける」という事ができるのは、”高度なこと”と私は感じている。私自身が、コトを大きいままに見る傾向が結構あることを自覚している為、他者の分類・区別できるそれらの事は、”能力”として感じている。

自分には出来ない事は”凄い”としか言いようがなく、だけどそれを自分がしようとは思わないのだけども、また別に感じるものもある―――。


何かを強烈に分けたい、分離したい時というのは、そこに「個」による拘りがある訳で、その拘りという偏りを「わたくし」というのだと思っている。

*人は器、空の筒などなにかを容れる容器のようであることが、良きことのように言われるものがあるけども。実際に、そうである事が場面によっては優れていることもあるけども。*

ただの恐怖から来る拒否的な分離などではなく、そこに「当人」という個が張り出すような、そこから来る自然な分離(分かれる事)というのは、中身が全く違って見えて、やはりそれは美しいと私は感じている、魅力的だと。


そしてこの、(私の思う)高度な「分ける」という事柄は、それを行うには分けていないものがあって。また分けない「全体」の時に、”重要なのは分かれている「個」”という様な、どうしても「逆」の状態が非常に大切に見えてくる。

”ズレ”の状態がそこに観えていないと、”高度なこと”はただの隔絶のように感じる。

それらは隣り合わせのもので、そこに”距離・隔たり”を作るものではない、という様なニュアンス。何だか、背後から上がってくるままに、そんな事を書くはめになってしまった(*^^*)

⦅*ー*の内容を書きながら感じたのは、言語化の嫌悪。
私のこれは、どこから来るのか分からないけども、こういうコトは言語にされるべきでない、という思いからどうしても自分の中に書きながら嫌悪という摩擦が起きる。流れとして必然的に書いているけども⦆


8/27 lineメモ

”寝てる時”の方が、読み取りが鮮明に思った。

これはこうで、コレはこういうこと…という様に頭の中が理解(整理)されていくのを観ている様だった。

・・・

自覚のある表側の意識状態で、たくさんの”情報”をザーーッと入れる時、その処理はあまり「分かろうとしない」という事を私はボチボチやるのだけども。

そしてその後の夕寝で(上記メモは夕寝)、”これとこれ”という様に結ばれて行くのを軽く文字が流れていくようなイメージ(画像)で、(その眠っている中で)感じているのは、「あー、そうなんだ」という納得、理解。

起きてからはその内容は”憶えていない”けども、文字通り「整理される」ようなスッキリ感がある。


表の意識を使って、思う方向に結び付けてしまうより、私はこの様な勝手な結ばれ方を結構信頼している。そしてこれを「憶えていない」から、”ふと”なんていう形などで、不意にこちらにプッシュしてくるのかもしれないね。

また特に最近は、その結ばれ方がこちらが迷うことなくとても明確な明るい気持ちになる様な雰囲気がそこにあるので、余計に信頼している…内容は憶えていないのに(笑)

表の意識がしゃしゃり出ないその時を、黙って見ていられる様なその時間を楽しんでいる。


追)全て一旦日中に書き終えていて、夜、確認のために読んでいくと・・・。今度は完全に「自分のフォーカス」として見えてきた。

前日には、何か”別と感じる”自分と離れた世界を見ている感じあったそれを書き、その一部「別の部分」をこうして書き。もう一度通して観ると…、遠い”世界”からどんどんこちらという”自分”へ距離が縮まって来た。

要は、「私自身の話だった」と言い換える事ができる。こう書くと広げていく事ができるので、詳細は別途書きたいと思う。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!