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オモテは明らかですな(*^^*)

9/24メモ

上も下も分からない―――。

近すぎて、どっちかも分からない経(みち)。

それだけ「同じ」になるという事なのか…。

今、この時期、兆しの確実性、

中々解りやすく、しかし奥深く。

視れる所から観てみよう。

かなりの相似形、どこまで見えてくるかな。

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

これも”外”とシンクロしたんだね。そこから感じるのは、ここまで接近してくれば、「”内外”はない」という、これまた“ヒトツナガリ”への線が見えてくる。

私は自分の中に於いての流れ、経緯を追って観ているのだけど、それが同じく「境界」を持たない者との繋がりとしてシンクロしていく。

簡単にはそんな事だね(*^^*)
(これがまた。夜には一気に線になって行った。その話はまた)


9/23メモ

逆になること、って多いと思うね。

私は昔、多数(大勢)を観なくても、1人の詳細をしっかり観る事で等しい、というニュアンスの事を書いた事があるけども。

ふとそれを思い出していて。

私は、「自分」というものの詳細を観続けて最中なんだけども、それは外に対して観測する事もやはり、可能と感じている。

少し工夫がいるのかな?という所は、『逆』『反対』を、気にかける事かもしれない、とイメージされた。


例えば私が、「こう(ある状態)」だったとした時、それが外で同じように「こう」と、そのまま映すのでなく、私が「こう」と思った、”こう”以外の『こう』を観るようにする事、そんな雰囲気かな、と。

私が真っ直ぐに観たら当然、私のメガネ・フィルターを通常は通ってしまうので、逆にそれ以外を観るつもりならば、そのフィルターの”外”を通って行かなければならない、入って行けない。

(私は)無意識に焦点を絞る目線になる事が多いはずだから、逆に絞りを甘くする「逆」、という事。


その逆(大勢パターン)は、私のこの”説”の「逆の観方」で記してしまう事になるけども、大勢を観てきて、大量に情報・選択肢があるのだから、今度は逆に「絞る」方へ傾けて観ても良いのじゃないか、と。

多数を観ていない者(例えば私)の絞りはもっと狭い範囲のものになってしまうけど、たくさんのサンプル経験があるという事は、ピンポイントが効く確率が高いわけだから。

ふとね。

そんな事を思ってメモしたね。今晩のカレーを作りながら♡

(これも、夜の時点で”詰まり”ました。これもまた別途)


昨日の、「逆になる」を書いていったのだけども、ちょっと広げ過ぎて別に移した(下書き中)ので、短いけど今日はこれで終わります。

通しで視えてくるモノは、『逆』というもの。言葉に囚われずに状態の方へ近づくと、”共通”というのが観え易いように思います。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!