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降参してふぅっと上がる


ここ数日は、諦め・手放しなどのような事に触れたのだけども。

この”状態”に入る(なる)段階も一つな訳じゃないなぁ…と思って。

あぁ、そうか…と気づいてそうする状態はまだ”硬さ”があるのだと、次の段階を実感してそう思う。「笑ってしまう」に近い状態。もう、(ほぼ)完全に自分の中の勢力が入れ替わっている状態があって、”降参”してしまうのだろうね、今までの自分が(笑)

この時には「自分の思考」の範囲から抜けている状態だからきっと、笑ってしまうのだろうね。

・・・

ワン達のことはたまに、だけど糖尿病ワンコのお世話をするようになってからは、散々考えさせられている。これが今私の主にある”現場”。

段々と様子が掴めてスタイルが落ち着いてきた、と思うといやそんな事はなく、次々と対応は臨機応変に、”じゃあこうしようか…”と変える、そしてまたそれは何らかの理由により変更・工夫の余地が生まれて考えさせられる。

「こういう風にしたら良いんじゃない?」

主人は結構その場で、「こうしちゃいなよ…(みかがそうしたら楽なんじゃない?)」という意味で言ってくる。それは結果的にまたは、場面によってはその選択をする事もある。私の中にもその選択が湧かない訳じゃない…、私は”ワンコ”を観ていて悩んでいる。

『それなら失敗はないんだけど、”通気性がいい”と言ってもやっぱり蒸れたりすると皮膚がカブレるからあまり着けたくないんだよね…』

他の子と一緒にケージに入るその時は、色々なことが起きたりする。それでも該当の子におむつを着けることは、極力避けたいという考えが私にはある。主人から見れば”矛盾した事を言っている”と思うと思う、主人はそれに関して何を言うわけではないけども。


”それが良い”と思っても、それによって起きてしまう事を考えて、どうしようかその時は悩む。だけど、どちらかを選べばそれによって別の対処をし、反対を選んでもまた付随する対処があり…で同じことだから”元のまま”のスタンスで、その時に起きてしまった事に対応するという事に落ち着く。

多尿・多量状態のオシッコに対応するために見つけた厚手のトイレシートの値段が上がった。ただどんどん捨てていく物もバカにならず、同等製品との比較はある程度はする―――。

『わぁ、これで元々高かったヤツの方が”安く”なっちゃった』

あまりメジャーでない限定品のそれより、ナショナルブランドの方が安くなってしまった。オンラインで注文予定だった日曜日、サイズ・メーカー共に2種類を注文して到着を楽しみに待つ。


という、他愛ない日常のことなんだけど、日常なんてそうコロコロ変える部分じゃなくて、ある程度安定していていい所を”検討”するのだから、面倒がくさいという所だけども、別のものの機能が見劣りしないのならば、それを選ぶという事の為にも、「使ってみなきゃ分からない」という所でのトライ。

現状をカバーする機能がなければ、結局高くても現在のものになるわけで、そんなこんなの流れをフードの件もあり色々やっていると、「今度はこれか(笑)」という様な、”面倒だなぁ…”をこなしながらちっとも安定しないそれに笑えてくる、ということ。

普段の安定的な土台部分、日常。

この部分は大体無意識でこなせる事が多いわけで、それだから気が休まるわけだけど、目の前の出来事が次々と変わって行く時、ほんの少しも落ち着く気になれないという様な変化のスピードがあったりする。こういう時は、”そちら”に合わせるという様な、”外のリズムになっていく”というスタンスであった方が、自分の中の摩擦が少なくていい。結局は”自分の中”に収まろうとする自分がそこから引きずり出される行為。


とすると、結局最後は「体力勝負」になると感じる。精神的ゆとりがある事だけではカバーできないのが”体力”で、動かなければ仕方ないことが次々出てくる時、動ける身体があることで消化できていくことは確かだから。

だからしっかりと睡眠は取りたいし、動いた後は休むことのメリハリも私にはとても大切で。何かを快適に感じる「緩める」こととは別の、身体を使えることが大切な状況があると、私は自分の環境からそう感じている。

・・・

私は自分の持つ環境、そして自分の体験からしか書けないので、人は様々に違う”動き”になる事は当たり前と思う。だからできるだけ、具体的な特定の”言い方”は避けるのだけども。

また、仮に説明される言葉の意味と”一致”した状態を感じたとしても、それ自体が、人のいる場所のそれぞれにおいての”感じた”ものなので、一致しているとは言えなくて、言葉の表現は本当に難しいと思う。

一つ例を出すなら、この冒頭に書いている文言。

「その状態に入る(なる)段階」というものを書いていて、硬さのある状態の前にも”笑ってしまう”状態はあると、私は記憶から引き出しているから。


それはやはり、頭の中で考えられる状態で済む場合には、その様にする事は可能だったし、でもそういう事が目の前に何度も現れてきた時、人は真剣にならざるを得なくて、その段階ではまだ頭の中に居る姿勢が多く、そこから次々起きることによって”自分が”表に引き出されていく、という様な螺旋を昇るような(イメージで)。

次元(場所)の違いは確かにあって、それを表現する言葉は同じだからそこで一致した”考え”で捉えるから私たちは、そこがゴールだとか”答え”だと感じてしまう。

人は殆ど「外」という現場で精神、自分の意識を伴って過ごしている事はあまりない、と思っている。外で全てを一致させて過ごしていることを、「自分」は見ることはできないだろうと、今の私は思っている。


「”私”になった」時に恥ずかしい…、などの感情を持ったり、その行為の認知がなされる―――。

という事は、”私”はいつもここには居なくて、その時に小さな自分を持ち、私をみる。

ただそれも実際に、”その瞬間”を私はつかまえる事は少しも出来ず、私はいつも、”私”の背中を追いかけている。

(メモより)


「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!