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想いは人を誘導する

なんかね…、おもしろいですよ。
私はこちら・あちらと書くものを自分の中で分けているのだけど、そしてその出力リズム(サイクル)は異なるので、それぞれにおいて少しずつ「何か」を避けて書いたりしている。

⦅これはアレだから、この後にして…、、⦆

なにを面倒のクサイことをやってるのよぉまったく…、と小さなツッコミが自分に入りながらの、今回noteの出力です(*^^*)

・・・ ・・・ ・・・

木曜の夜、そろそろワン達のご飯を―――とその前に洗面へ行くと、水が出ないことに気づいた。「えっ?ウソ…」その後の諸々はすっ飛ばし、水が細くでも出始めてから、”どうやら大丈夫そうだ”と一段落したらなんか疲れてしまいポストした。

その後に遅くなった食事、夕方はしっかり目に落ちたのは、生理のころで、頭重や身体の重さをすでに捉え始めている時だったから。しっかり眠っても身体は”いつも”とは違う状態を引きずり、断水はその起きてからのことで私の中では「重さが重なって」いた。

いつもと時間はあまり変わりなく就寝。翌朝の昨日の寝起きはアタマが重かった。いや…、気が重い感じがしていた。先月・その前?からだったか寝起きは殆ど気持ち良く起きられていて、だからこそ余計に重さを感じられた。


あれがあって(身体の状態)、アレが重なって来て(断水・対応)、今朝はこんな思いになるんだ―――

朝一はワンのトイレ関係の処理、目ヤニとりなど少しの間、時間はパタパタする。その後にX、Facebookと流していく。主人の出勤見送り、そして台所へ。

大体こんな流れで始まるわけだけども、自分のこの朝の”重さ”にふと、「なんでだ?」と思って観察へ入った。後にそれをまとめたメモが以下へ続く。


”暗く”なる/”重く”なる

という現象の中には、「思い込みに入り込んだ」という状況があると思った。

Facebookに書いたこと(の内容)に気づいた後、「私の動き、気持ち」は明らかに明るくなった。そんな事で??自分でもそう思った。

連なり を止めただけ
そこを 繫げなかっただけ

それだけで切り替わってしまった。

そこから感じていた暗さというか重さという事の「幻」を見たように思った。その中に居る時、勝手に暗くなることができる、その仮想空間に浸ることが完ペキに可能だと知った―――、だから、逆もできて当然なのだ。

その暗さ(重さ)は、モヤへ入り込んだ”私”の状態、その”モヤ”は、この”私”の思いを込めてしまった事による「見通しの悪さ」なのかもしれない。


そして考える…。

「”未来の自分”が心地良いように、”今の自分”は快適でいようと思ってる」

主人の言っていたそれ、その時点でグッと方向を意識的にそちら向けていく、そのソレ。

ノウハウとしては知っているのだけど、私自身はそれをやろうと努めたことはなく、主人との(大きな?)違いでもある。主人の言ったこの事を頭に浮かべながら、前出のメモ時に感じていたのは、「そちらへ向けなくても、”繋げない”、連ねないということだけで、十分に行けてしまうだろう」ということ。

この「」でまた、内側から湧くのは、私がそもそも、
・自分の中に極力”摩擦を作らない”こと
・自分の奥に静かな・強い”ポジティヴ”があること

を前提に持つから。この前提の持ち方は(恐らく)主人とまったく違う。

私は意識的に”そちら”へ持って行くことでの、自分の中のキツさを強くイメージしてしまうから、”行く先は同じだけども、行き方は違う”という選択をしているように思った。

・・・

Facebookに上げている時点で、内側の様子に気づいているから表現しているのだけども、そうして何気なく、でも当然のようにこの自分はそれらを繫げて、重ねて「重い~」ということを感じていたと知った。

これは”この時”に知ったのではなく、これに気づいた時はその流れを追って観察に入っただけであって、それを”明らか”にした時、その後の行動に軽さが出て、ここで始めて「実感」を掴んでいる。明るいだけでなく、確実に軽かったから。本当にびっくりした。

”んなことあるかい!”と、突っ込みたくなるのは私自身で、「何これ?!」という驚きが大きかった。生理に絡む身体の多少の重さは相変わらずあることには変わりないけども、”さっきの何か”がなくなっただけで、軽くなっていた。


この事を目の当たりにして、その状態から振り返った時に、重さは想い(思い)であること、この見えない、何も実体として掴むことのできないコレなんかが、これだけの影響を自分に与えてしまうという事を感じた。

”思い”でそれらを繋がないだけで、明るい。モヤっとしたこの雰囲気は、自分によりうっすらかけている思い(込み)のフィルターだと思った。それを通さなければ(思いを外してみたら)内側の視界が完全に開け、見通すことが出来ているのだから。

これは、いつもの様に私自身の体験を通して気づいていくことのメモ・出力であるのだけども、これだから「活かせる」という事へ伸ばしていく。


途中に書いたように、私は「自分の中に極力摩擦する状態をつくらない」というスタンスは以前から変わっていなくて、だからこう言う状態があるという事が分かっても「”ある”こと自体をない事にはしない」。あるものはある、不要なものには気づいたらそこは不要だなと、付いてしまっていたクセ(習慣)を都度解していく、それだけ。

だけど同じように。

そういう事もある(かもしれない)という事から、この「想い(思い」というものには相当な力があるという事をしっかりと記憶しておくこと、こちらが大切だろうと思っている。何気なく当たり前に、起きてくるこの自分自身の思いは、いとも簡単に自身を不要に重い状態にさせることも可能だという事。


”私”自身が無意識に行っている事というのは、外に出力して簡単に目にできるこの様な表現のカタチだけでなく、そもそもその様に”結ぶ”行い自体に一体となっているから、自分では本当に分かりにくい。

それでも、想いはかなりの力を持っているから、その使い方を知っていくこと、この自分が手懐けるまでにアレコレする時間も要ること、その様して自分自身と本当に一体となって行くんだろうと思っている。

近いものを結んでしまう、何かの状態を”肯定”する為に結束する「情報」。

アタマの機能は、こちらの意図とは関係なく自然と繋げてしまう。これだけで全てのものが”見破れる(明るくなる)”わけではないけども、これで明るくなったこの事に関しては、少なくとも私自身の一部を見破れたのだと思う。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!