気持ちよさそうに(*^^*)
冬のハンドクリームが、とてつもなく大好きで。
大概夕方のんびりする前に一度塗る。乾燥を感じる時はそれ以外でも塗るけれど、それは滅多にない。
もう、とにかく心地いい。目を開けているのに瞑っている。潤いに満たされる瞬間。
・・・油分が少し気になる感覚が残るとこれはもう「快」から外れてくる。微妙な纏い感。感覚的「快」は意外と狭い・・・
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この小さな小さな”私”というものの中に、大きな見知らぬモノ達を取り込もうと、受け容れようとしているその行い(の結果)が、苦しい・辛い、という感想になるかな…。
ストレートに考えたら、拒否している(受容したくない)から苦しい・辛いとなりそうだけども。
「素直に受け容れる」事と「完全な拒否」は、苦しい・辛いとは距離のある物で、正反対のこれらのスタンスはそれ以外という意味では”同じ”こと。
”取り込もう”という、「やってみよう」という挑みがそこにあるから、辛かったり苦しかったりを感じるんだよね。
逃げていない証拠だ。
ただ、一目散に逃げる事も「選択」にはあるからね。
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(メモより)
私が書く理由。
あの時、暫く休もうかと思った…あの時は。でも、同時にやっぱり冷静に考える自分がいたから。(休んで気が起きないならそれはそこまで、という感じ)
・この今の自分にしか拾えないものがある
・今だから、そういう人たちの心境が解かる
そして、これで”ルーティン”をやめてしまったら、本当にダメになってしまう、そういう思い。静かに真剣に考えた、この時は。キツイはきつい状態だから。
毎日続けている事を、執着だけで続ける、という事はしない考えを持つけれど、それを”やっていいタイミング”、というのが自分の中にはあって。
考えるという、いくらかの余裕(余力)がある状態において、逃げの意味での”やめる”、は少し違うかな、という私の考え方。
終わらせる、やめる等の行いは、「攻め」の為と基本的に考えるので、「ここじゃないだろう」と思った、という事。
どうしようもなければ、「選択」という余裕も残されていない。
ワン散歩を面倒に感じる時もある。動きたくない、と思う事もある。
でも、放棄した(し続けた)事を想像すると、視えたのは”廃人の私”だった。外へ出る、規則(ルール)が多少ある事が、その逆の自由を感じさせる。
この子達の為、と思う事もあるけれど、「この子達に連れ出してもらえている」と感じる事もある。
動かず、強制のような部分がないと、私はズルっといける部分もある(?)だから、ルーティンとして行っている事は余程の事がない限り、「続ける」という細い糸を引き続ける。
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こんな感じでいいんですよね、かーさん?
あー、なるほどですね。。あったかいですよ、アンヨ。。。
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選択という余裕は、自分の中にエネルギーがあるという状態、多い少ないの差はあれど。
小さな力になっているなら、その小ささのまま、外(現実面)で使う。持ってるものしか使えないから。
何かの「実行」が、やれた、できた、というカタチで自分に返ってくる手応え、実感。それは誰にとっても嬉しい事。
私は潜ってしまった時、風呂の消耗品の詰め替え物を、補充できただけで嬉しかった。「できた」という実感があった事を憶えている。そんな事が嬉しく感じるほど落ちた時もある。
普段できる事が凄い事じゃなくて、今あるエネルギーをきちんと自分の行いで実感し、自分の中へ戻す(フィードバック)事で循環させる。きちんと自分に集中させる事が先。他は余力で行うものと考える。
力が小さい時は余計に散らさず集中するーーー
書き写していて気づくのは、普段の事をこなし、やりたくない事はやらない、これも同じ。以前に「やりたい事をやっている」と言っていた部分(書く事)においても同じ…。
疲れを感じる、気力が湧かない…の感覚は”事実”なんだろうけども、”エネルギーの大小”という程、実際に差があるのかどうかは私には判らない。質が違うと言う方があってるのかもしれない。
明るく強く前進、というものが「大」と言うなら、気力が小さい時点で「小」となるわね。
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!