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あの道が見つからない?

今日はちと簡単に(*^^*)

古い記事を探せばいいのだけど、ちょっと他に時間を使いたいので、その内容は簡単に書きながら仕上げます。

・・・

『えーーっと。今晩、あの”神さま”に会いに行ってみたら?』

私の中で重なる情報があり、かつて主人が言っていた”神さま”に会いに行ってみたらどうか…、と話してみた。

主人は過去、就寝前の時間を使って、空を飛ぶ練習をしていた。その”空間”は、何でも自分の想い通りにできる場所で、どの様に飛ぶか、どうしたら速くなるか等の”練習”を、そこでは思うままにできるようだった。


その同じ”空間(時間)”を使って、主人は以前、神さまに会いに行った。殆ど相手をしてもらえず、陰から「何をしてるのかな~」と、こっそりただ見ている。その様な話だった。

仙人のような姿をした神さまは、「待っとれ」と言ったという。それ以来、何度もその空間でアプローチをするも、自分が寝落ちしてしまう事が殆どで、まずそれ以来まったく会えなくなった、という事だった。

それをまた「行ってみたら?」と勧めた訳だけども、その結果は・・・。

・・・

『どうだった?神さまに会えた?』
「ううん…、会えない。あの神さまへの道が出てこないの…。探してるうちに寝落ちした(笑)」

神さまに会いに行ける、その参道のような砂利道。曲がりくねったあの道がなかった。”入口までいけなかった”、と主人は言った。

『はぁ~、よかったね(*^^*)』

「・・・」


神さまに会いに行って、何かを伝えてもらえるならそれはそれで良かった。自分に対してのメッセージだから。

だけど、「”あの時”のその道がもう見つからなかった」という所に、「もうあなたに、あの時の道は今に必要ないでしょ?」と捉えたからだった。

現在という場所で。

過去の様々なでき事(エピソード)が必要な時・状態はあるかもしれない。いや、多くは暫く”ある”と思う。それが「記憶」というものだから。

以前、私の姉の話でも触れた事があるのだけども、

〘過去のでき事にエネルギーを注ぐことも未来へエネルギーを注ぐことも、エネルギーを使うことで”同じ”。ならば、ここから創っていける”未来”へ向かう方へ力は使った方が良いんじゃない?〙

ということ。

過去という場所に戻れる人はいない。それはこの頭の中にある”記憶”を、今というここに引き出しているということ。それがゼロになるという事はないのだけども、自分の中から生まれる力を使うのなら、その「向き」を替えたら良いね、という話だった。


それと少し似ていて、主人のソレは、あの時確かに見た「その道」は。

あれからもう大分経っている事だし、その事象を楽しむのも面白いから良いのだけども、やってみてその”手応え”がなければ、それはそこに執着しなくてもいいよね、という意味だった。

何より、そもそも。

私達が何かの方法・手段を使って事をするのは、「未来に何かを望んでいる」からであって、過去へ戻るためじゃない。それをいつの間にか忘れてしまい、それに縛られ離れられずにいる。

それがまた”不思議体験”となれば、余計に特別感などを感じてしまい、それに執着してしまう本末転倒だから。


そしてやっぱりおもしろいなぁと感じるのは。

主人の説明するその場所・空間。

それについて、何か主人が知っているのかどうかは訊かないので分からないけども、「あの場所は」という、どこかとどこかの”中間”に位置する場所を指していて、主人の中でしっかりと認識しているという事。


またそれは、どういう状態の時にその空間に入るか、入って行けるかという事を体験から知っているので、「主人の言葉で」表現がなされている。

過去にも書いているけども、昨日の記事内容にも少しかかってくるのだけども、主人は「内側」へ入るのがうまいな…、と私は感じている。入るのが上手いという表現は、この外側の世界から観る”私”の表現になるからそうなるのであって、主人からしてみればもしかしたら「入る」というより、自分の楽な世界へ「戻る」という事かもしれない。そこを「主」と感じるような人だから。


ついでに昨日内容の最後に書いた、「顕在・潜在がコロコロ変わる」という事の補足をして終えたいのだけども、これはまず、それ自体が逆転するという事ではない、という事を今ならば先に書くかな。

では、どうしてその様に「感じるのか」という事だけども、それは、この地上の世界で左右・上下・前後(手前・奥)という様な、どこに居るかという場所によって物事を見ることと同じように、地下、通常は地上に現れない(現さない)所から観えるものをみる時、その水面下で感じることをこの世の言葉で表現すること、同時にそれを”解釈”する時には、自らそれを受け取る(読む)事になるので、一種の混乱、「逆と感じる」というそれがある様に感じることから。

アタマの中の情報が、言葉(概念)での記憶・理解している事と、映像で記憶されているものと、それらを混ぜて一度に考える(出力する)ことに多少の混乱を感じるから(私の場合)。

そして。

これはやはり、「脳内の処理」の仕方によって、脳がその状態にある事によって「見せられてしまう(そう感じてしまう)」という所に行く。

「私」と思っている私は、私なんかじゃないただの一時の”情報”であったり、その使いまわしている記憶を以て「私」と認識している自分であるならば。

何ひとつ。

自分のことを責めることも、否定することもない。

一時の情報処理がその様にした。そう感じさせた。

それをこの自分が自ら見破った時。

この「私」という者へも、上手にメスを入れて行くことが出来るのかもしれない。


つって。

この後、なぜがいきなり”プシュ〜ン”と電気が切れて部屋が静まり返った。(書き終えてすぐの意味ではない)

停電になり、ソーラーエラー表示の意味を調べたりのワサワサとなる。

「そんな事に時間を使いたかった訳じゃない…」

結局、余裕を作ったはずがいつも通りになってしまった。

こんな事だってあるんだもの、おもしろいよねぇ…( ;∀;)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!