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”誰もが”の話よ

自分の今までの”目線”が、何かのきっかけで「そうは見えなくなる」という事はあって。

それは、一時的なものとしても、自分の強固なカベが壊れる事によってもと、両方あるけども。

まぁ、とにかく。
あるわけですよね。

昨日のFacebookで書いたこれは、

【私自身がまったくその様には見えていなかった”世界”であって、それが突如この私の目の前に顕れる】

という”現象”だったわけだけど。

だけどそれは、私の中に「なかったモノ」なんかじゃなくて、言葉がつくのを待っていた、”スタンバイ状態”だったかもしれない。

この、スタンバイは自ら入れるスイッチと言うより、その流れ、時が来て自然と「ツギ、スタンバイセヨ」という様な位置へ押し上げられてくるかのように、それは「結びやすい、目の付きやすい所」へ、上がってきてくれる―――。

そんな様にイメージした。


昨日のチーカマ話じゃないけども、目の前にあったって、私はそこを「私の場所(空間)じゃない」と、通常は”消して”している訳で、その空間はいつもそこにあるのに、私の意識がオミット。「私の必要なもの、関わるもの」は、自覚意識ではすぐにオンされるけど、無意識部分(今までの習慣・パターン)は、すぐにはスイッチされない。

だから、こんなに目の前にあるのに、しかも自ら目立つようにわざわざ”仕掛けた”のに、その空間が面前に入ってこないという不可思議な目に遭う(*^^*)

この現実世界に身を置きながら、それだけ私たちはかなり多くの無意識の中に生きている。

書くことによって、ここでも”タイムラグ”をしっかり感じることができた。


昔それを、「圧縮ファイル」と表現した人があったと思う。

それにどう意味が付くのかは、ご本人の意図を確認した訳ではない事を前置きした上で書くと、〘タイムラグ、タイムカプセル〙の感じが私の中から湧いた。


その時は、”分からない”まま、なんとなくの「ふ~~ん」てな感じで自分の中にスルッと入り、長い時を経て「あ…、そうか」と肚へ落ちていく。

それは、先日の音声noteでも話したように、先に頭の理解(”肚落ち”と表現している)があって、何らかの動作・行動があって*、それが自分の中で身体として習慣になると、”ふと”。長旅を済ませて帰って来た「そうか…」がやってくる。

この時、理屈は先に知っている事もあり、「目新しい気づきじゃない」と、自分で分かっている(状態)。

その時本当の「あ…そうか、そういう事か…」というこちら側(自覚できる自分の意識側)の肚落ちが来る。


”こういう事”。
これが、身体を通した実体験からの言葉になる。

使う言葉は”同じ”でも、中身・意味は本当に違うもの。深く納得・理解した時、圧縮ファイルは、今とばかりに解凍されて開くのだと思う。

(メモを元に)

・・・

*動作・行動があって…

これは、そのコト直接の動作(それに因んだ具体的な動作)をし続けなければならない訳ではなくて、「もっと大きいままで良い」と私は思っている。

それは、これに限らずの「考え方」なので、「自分の持つサイズ感に合わせて」という事で良いのだけども、振り返って私が言葉を付けていくと、「大きめの話」になる。


「”具体的”に絞らない」という事は、とても分かりづらい部分があって、それを知りたい、「分かる事」が目的だったはずなのに、分からないままにしておく事の選択をしているのだから、意識上では「気持ちの悪い状態」を抱える事になる。

それだから、「一旦忘れてしまう」。

”分からない何か”を、その場の自分で”分かって”しまうのではなく、”分からないまま”で、その時その言葉は、自分の中にしまってしまう。

表現・言葉は本当におもしろいもので、”しまう”は、そこに2つの意味を即座に投げかけてくれて、単に”忘れる”の意と、”忘れる・仕舞う”の意とがこのアタマに浮かんでくる。(これは一般的な捉え方ではないけども、私はその様に捉える(読む)ことがある)


そこから脳内で一旦は閉じられた、仕舞って忘れた状態で置いておいて、閉じたものを再び開くその時を待つ状態に”スタンバイさせる”、というもの。

情報は、私達が気づかなければ”忘れてなくなる”のではなくて、気づかない所に”存在”しているので、何かと「結べるその時」を待っている、という風に脳の働きから感じている。

引き出せないものは、”ない”のではなく、「相手先」が見つからなかっただけ…。そんな解釈を私は持っている。

この”サイズ”によって、「理解の解凍度」が異なるのだろうと思う。

〈比喩〉
距離(経過時間)は結び先までのスピードと関係し、また距離があれば当然、通常はボリュームが出てきて然り。なので、「因んだ具体的なコト」でなくても良いと考えている。

サイズ感は各々の在り方、好み、選択。

ボリュームがあれば、何と何がこの先に結ばれて行くかの、”要素”をたくさん抱える事が可能、という風に捉えている。

・・・ ・・・ ・・・

”記憶”
情報は、〘結び先がないと宙ぶらりん〙になるという事は、そのイメージから過去に触れている。

セット。対として存在している。

何かをしたら、ナニカと結びたい。結び(付け)先がないと、私たちは手応えを感じることができず、行くは「やる気」さえも失ってしまう。

目的がある、目標があるという目指すべき所・ものというのは、”結び先”であって、そこへ繋がっている(いく)と言う到達への意欲、いわゆるやる気の維持がなされる。

脳の報酬は、結び先としての”結果”だけでなく、ここから先のスタート、”原動力”として同時に機能しているので、大きなものへのそれと、小さなものへのそれとの、それぞれがあっていい。遠いゴールばかりでは、その到達までに息切れが起きてしまう事が多いから(こちらが多い)。

長期で見ることが難しければ、比較的距離の近い所へ結び、結局何某かへ結ぶことで脳内に「報酬」を与え続け、「やる気」を維持しているのが私達だと思う。

(メモを元に)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!