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現実に触れて知る

「感じる」って、その場所じゃないと感じる事はできないよなぁ…、と昨朝は起きがけにふと浮かんでいた。

それは”感情”のことで、何か穏やかすぎては、また何か”触る”ものがなければその次へ繋げることが出来ない。

だから感情はエネルギー源。
その力をただ外へ放出してしまうのでなく、それを使って自分の行動・この身体を動かして行くことへの着火に使うというイメージがある。

だけどこの力のある”エネルギー”の使い方が難しいし、私たちは結構コントロールすることができない。

感情は、原動力になるだけでなく、その存在自体にこの自分自身をも焼かれてしまう事もあるからキツイ。頭の中がもし、その熱に侵されてしまうとそれは一時でもきつい、感情の力はそれだけ強い。


意思がある事は、それを行うという方向づけができるということ。そうしたい、そうする。自分の中ではもちろんそれでいい。向かいたい方向が”ある”という事だから。

だけどそれが、他者という自分以外と関わることになる世界・社会の中ではそれが強すぎるとどうもやっぱり都合が悪い…ガチャガチャっとする。

感情部分を多く絡むものはそちらへ吐かすようにしているため、噛み砕きは28日のlivedoorブログで書くとして、今回もここではザックリと表面を流していく。

・・・

多分、その過程では”そうなる”という経緯は単なる流れとしてあるものと観ているのだけど、自分の意思を主張をする様になった主人は時に大きく自分の中に取り込むように他者へ働きかける…、それは私も例外じゃない。

だからそれを黙っていない私と言葉ではぶつかるのだけども(笑)内心で私も腹は立つものの、今まで反抗期もなかった子が弾けたかの様な一面をたまに見るようになり観察としてもその態度を見ている。

これに限らず以前から、帰宅後間もなくシャワーを済ませる主人なのだけど、この”行為”が日中ベタベタとつけてきた諸々を洗い流すのか、帰宅後に弾けが現れたとしても、シャワー後は何か落ち着きを取り戻し言葉は正常になる事が多い。

これだけ揺れたら、本人の中でも大変だろうと思う反面、今まで感情を絡ませる事もなかった事からすれば、随分と動くようになったんだと私からはそう感じている。


洗い流す。

一日の汚れをしっかりと洗い流すという行いは、実際に外で”ベタベタとつけてきた”のではない、自分の内側から出てきたそれに包まれて不快な状態を引きづっている事の不快感があるだろうと推測。こうすれば良い、こうなれば良いと自分の思い・考えが鮮明になるほどに、そうでない状態とは大きな差ができ快適じゃないはず。

人は、自分の意思を持つことが出来る。考える事ができる。だからそうある事を望むし、そうでない事に不満・不快が出て当然なのだと思う。その周囲にあたる存在は、その氣を丸被りしないようにしっかりガードする技術は必要と思っている(笑)


以下はメモから。

”そこに居てみ?”
しっかりと浸かる、というそれはやっぱりしっかりとカラダが浸からないとそこを本当に出ようとは思わないのだと思う。

それが少し前に表現した「まだそれが”膨らむ”状態(がある)」という様な部分と同じ。

今もう少し詳細に書くことができる。
アタマでの拒否とカラダの窮屈さによる、この大きな違いだろうと。

アタマで考えて拒否する状態はコトの大半で、その拒否はコトという”現場”を動かす力はない。身体の窮屈という制約や制限という見えない身体拘束は、底からの拒否をしっかりと表す。その時”動作から”しっかりと動き出す。動こうとやっと自分を動かすことができる。


頭と身体は、私たちの思いの外、分離された状態にある。繋がっている、当たり前にこの身体を使っているのだから分離なんて??と、言葉にすると意味不明だけども、この自分の身体のことなんて、誰もあまりしっかりと分かってなんかいない。自分の身体だけど。

その状態を自分の「頭」に教えてあげるために、その状態をしっかりと感じる、感じ切ってみる、そこに居てみる―――。

記憶がイヤがっていることと、身体が拒んでいる事とを区別、見極めるためには、それというものその状態をしっかりと感じてみないといけない。お湯が熱けりゃ手を引っ込めるのと同じように、本当にあるその状態で身体は拒否などしない。

自分自身に”分かる”という事を教えてあげるには、意識と共に身をそこに置いてあげること。

思うままに書くと、こういう事だけども、これは直の話で、コトによっては厳しい事だから…。だから世の中には理屈から少し優しく、「こういう風にすると良いよ」という導きがある。そこで動けば少しずつ感覚はわかるのだけど―――、

だがしかーし。
人はその優しさに染まり、結局殆どがそこから動かない。

カラダの感じる窮屈さとアタマの違い
カラダは生きる快を求める。

・・・ ・・・ ・・・

最後のメモ自体も”主”を決めた書き方(捉え方)がなされているのが分かるのだけども、一応そのままここへ写した。

頭も体も繋がっている状態はあるわけで、”考える事”によって、その仕組み・機能によって分けて考えることが自然となされてしまっている。だから、このメモ内容も区間(地点)を変えれば、頭を主にして書くことは可能(私は身体に重きを置いた吐き出しを、このメモではしている)。

何かを理解するためには、”分けて”考える事が必要なため、過程としては大切なのだけど、この言葉で表現されることによって、自然とやんわりとした”分離”の状態が脳内に出来てしまうのを、しみじみ感じている。

「その状態に言葉を付ける」というのは感覚であって、言葉ありきの文章・構成になっていないので、時を変えれば”見える場所”は変わるし、それを”その時意識している場所”と書くことができる。だから、言葉を変えた表現の言い替えもチラホラ出てくる。


昨日の終わりに触れた、「また改めて」の一部は、”この内容”のこと。

具体的なことから書く予定でいたのだけども、冒頭から意図せず書き出した流れが「またズレていくな…」と感じ、今回も捨てたつもりでいたのだけども(笑)メモまでつなげ、”その部分”がここにも現れていると感じ、最後にこうして付け加えて書いている。
(メモ内容はまた気が向いたら広げて書きます)

言葉は「表」を現している。
だから、必ず隠れた裏側部分も存在している。

だけど人は、表に現わされたことを、「裏がある」と思いながら表の世界にいるハマった状態にある。

見る場所によって見え方が違う、そこで拾う感情も全く違う。頭の中のシミュレーションは、感情の予測を深くできない。

その現場でしか受け取ることができない感情があり、それを受け取る時、人は頭の中から少し飛び出す。精神というものはかなり自分の中で守られた状態で置かれている。

感情がしっかり動く時、人の精神はいつもより外側と接しているのだと私は感じている。

(”精神”は、この場でのニュアンスに近いと思い使用した)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!