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見せられる映像

ちゃんと、意識側でフォーカスされているものが、この”無意識”な私側に影響を与えてくれている。

今までに何度も「逆」になる違和感や気づいた事に触れたりしているのだけども、この意識(無意識)のことを”書く”たびに、その「表現」でいいか迷ったり又は、「逆か?」と感じたりする。

そういう事で言うと、こうして「書く」という平面の手段では、どうしても”ムリ”という事になり、説明すればくどく、”分かり易く書こう”とする程に分からなくなるという事が生じる。

冒頭の2行。
これ自体、通常の理解と結んで考えれば、「意識と無意識が逆じゃないか?」となるはず。


5/25 メモ

今までイメージで脳内に浮かんでいたものが、”文字そのもの”から”状態”に移れた。

『あー、そういう事だ』
慌ててメモした。

『今までと”何が”違う?』
と問う。

いつもの映像解釈じゃなかった。文字→映像→解釈が、文字からヒューッと直に状態を一瞬視たように感じた。

そしてそれらが重なり合う・・・「同じ(こと)だ」と思った。

暗記された(であろう)イメージの引き出しから、文字からそれが潜った場所のイメージでなく、表に現れて視えていた。


それが、いつもイメージしている事と”同一”、同じだと思った。

「図と地」
ここで出てくるんだ…と。

浮き上がる図、背景の地。
久々のゲシュタルトを思い出す。

「学習」から「オート」に切り替わったか…。

今日のメモが早速確かめられている完璧な流れ。


この現実に、しっかりとした意識で”生きている”その時に、無意識(→)で、振り返り意識する(←)。

24・25日と、無意識にしっかりとした意識で、沢山のメモ(→←)をしている。

その繰り返し、結果の現われを見つける。

表側は現れていること一本線で、そのまま観えるという事は、それはやっと”見えた”という事と思った。内側に入ったり潜ったりしなくても、”表面”で見えた明らか。

自分の今までと比較して、全然見え方が違うという事を本当に知った。

まだまだ「学習状態だった」ということがよく分かった。

・・・

この↑↑↑「書き方」自体にもヒントがあった、と書きながら再度感じた。

私のメモ帳は、勿論”時系列”に進んで書いていく→方向なのだけども、こうしてnoteにする時、それを”そのまま”順序通りに移し書くわけではない、という事。

過ぎ去ったそれらの材料を色々な理由や目的、フォーカスによって無意識に計算される、という事が言える。こうして書いていると、あれやこれやとアレもコレも見え方が逆だ、と今だから拾えることが沢山あると思った。


以前の見え方が嘘という事でなく、脳のハタラキが変わると、「この様に捉えるのが普通」という感覚になる、という話。

ほんのつい最近まで、本当に→←に付ける言葉は、「意識→」「無意識←」という感覚を持っていたのだから。(注:言葉に付けている矢印が違うという事)


それが当たり前に「逆」と捉えるようになるのに必要だったのは、何か新しく学ぶ事ではなかったと、私の経験からならそう言う。

「分からない」という、分かっていない状態を、どこまでもどこまでも分け入ってきた結果の「分かる」というタイミングだったと書きたいと思います。

だから、長い事私が多用してきた「タイミング」という言葉は、いきなり現れるものじゃなくて、そういう流れの”結果”に現れてくる必然だったという風に、自分の様々を見続けてきてやっと明らかにできた事だと思います。


そして今日も(昨日のこと)、散々「意識・無意識」のことで湧いたままをメモしていて、今の時点で観えてくるものを拾って”自覚に上げたい”と、自然な動作として行っている。

こういう状態の時、自分自身の”流れ”も速いので、溜っているメモ内容を実感しながら読み直すことすらなく、流れのままにアウトプットしていく作業が続く・・・、その後ピタッと静かになって落ち着く。

そしてまたガーーッと湧き出す(大量にメモしていく)、というパターン(波)を繰り返している。


「その様にしよう」と、自分の行いを決めてそうしているのではなくて、私の場合殆どが「流れに任せている」と言える部分がある。

強烈に「自分」というものに拘る在り方を持ちつつ、やはり”それ以外”の所では、「どの様でも良い」という在り方がある為、「流れがそうであるならその様に」という行いに沿っている。


度々触れる、「”自分”を抜く(我を抜く)」という様なことは、私は”結果として”その様であること、と思っている。

私は我を抜こうと、そんな”イイ人”みたいになる事を考えたことはなく、だけど、拘る部分が小さい・少ないという事は、結果として”それ以外”の部分が大きくなるという事。

それが周り(世界・社会)に合わせたような、馴染んでいる様な、状態として映るように思う。

「やろう」としなくても、その様な事を言葉にしていなくても、”行い”から観る事はできる。社会での話だけでなく、私は脳内の「自分と自分´´」という様な、意識を意識して最後は書いてみました。


「”自分の居場所”が異なる」
という、脳内における”自分”という存在の居場所が違う、という事を今までにも書いてきているのだけども、これは「層」という言い方もできる、と感じた。

実際に冒頭から書いてきたように、今までの自分とは”逆”の表現をするという状態は、その”居場所”が変わらなければ、この感覚にはならないものだから。

このあたりもメモ済なのでまた書いていきます(*^^*)

「自分」というモノは一体、どこにいる者なんでしょうか、ね。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!