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共通のモノサシが使える…
一昨日既に書き上げたlivedoorブログ。
これは見直しも終え、いじらずに恐らくこのまま本日アップします(*^^*)
書くという事は、”その事”に意識を向ける行為で、必ず尾を引く。だから今日のnoteはそこと意識が連なっているのが「私だから」分かる。この今までの情報を持っているのは”私”だから。
記憶とは、誰にとってもその人だけの固有のものだね。
・・・
自分だとか、他者だとか。
そんなことをあっちから観たりこっちから言ってみたりしたのだけど。
結局つながっているのは、この”私”という場所であって、そのスイッチ「自・他」を切り替えるだけ、という様にみえていて。それが場面=現場と合っているなら”適当”で一番良いのだろうと思う。
どちらかに偏りすぎることは、それに強いと同時に、同じだけ弱い状態を持っているという事だからだね。
そしてこのバランスを見つけていくのが個々人の”課題”となっているのだろうと思う。「個々人」となるのは、皆がみな同じ環境にいるわけじゃないから。人との関係の仕方は場面だけじゃなくそのタイミングや同じ人の中でもこの時の自分・その時の自分など間違いなく変わってしまうから。
だから”同じ見本”などどこにもない、いない。
ただ、その様に少しでも前に進んで行きたいと思った行動をしている人達を見つけることで、この自分の背中は押されている。
前に存在しているものを追いかけつつ、背中を押されるという不思議な表現(笑)そういう存在もまた同じように「自分の中を」見つけていった人たちだね(*^^*)
孤独だけど、世界には”孤独もの”しか存在していない。
・
自分とは異なる存在、”他者”というものは分かっていた。それを理解するために言葉を使いコミュニケーションを図っていった、近づけると思った。それが―――。
交流が本当に交わってしまったのだろうか。
自分(という存在)は○○です、△△のように感じる、※※じゃない…。というただの主張があり、それで良かったものが意識は少しずつ大幅に他者へ傾いた、傾いたじゃ済まないくらいの移動に近いかもしれない。
何がそんなに侵食したんだろう。もちろん”そうされた”という状況もあると思うけども、自分から自分を不在にした状態が強すぎて、時にその弱さから何かを叩くのはおかしなことだね。
少し前のメモになるのだけども、何と言うのか、この事からは「意識は分かれていないもので、体験・経験を入れていくことで自分の中で”分化”されていくんだ」と感じた。
どの状態が普通とか、どれくらいが標準とかは一切示しようがない。示せるとすればそれは一応の基準。分けられたことによって意識の向け先が増えていくと言い換えられるか。
体験は、それ自体はまだ何にも繋がらない先に起きた出来事で、それを何らかの形で表せる言葉が入ることで結びつき肚落ち、経験となる。人はすべての意味を知らなくても、それが今の自分の中にある”何か”のことを指しているという事を状態から理解できる。そうでなければソレとコレを結び付けて”落とす”事はできない。
「私」の中での体験として、その中に「他者」という様々な存在が登場し、それによって私の中の情報は、自も他も同列で処理される、という事なのかな。そこに”区別”はない、その情報の状態に区別ができないという事なのだろう。
区別できる所を働かせるには、恐らく前出の経緯(同様な流れ)がきっと必要で、それを経て”分けられていく”という域になって行く、という様に感じた。
メモ内容の直接に少し触れておくと、最後の「自分から自分を不在にする」というのは、本当にかなりあることで、「自分はいつもここにあるそんな事当たり前!」とどれだけ強く表の意識上で思っていた(=自覚)としても、それを現わしている”意識状態(≒無意識)”においては、まったくの「当たり前」にはなっていない。意識と無意識は一致していることの方がとても少ない。
そしてこの自覚ではない無意識が自分の存在、”在り方”としてあるので、力としては大きい…、無自覚な部分のソレの力が大きいということ。
ここで、上記の文中のイメージに使っていた”無意識”というものを、一般的な意味で使われる「無意識」という意味へ切り替えて再考すると別角度からものが視える。
「無意識だもの、自他の明確な区別などない」
ということになる。
意識が自分の自覚に上げられること・上げていることであるなら、それ以外の殆どはこの自分自身にも気づかれていない存在・場所ということになる。気づいていないものは、気づきようがない真面目にふざけた現象がここにある。
自分に築かれていないものは、様々な区別ができないので”一緒くた”という表現ができる。その様なゆるさが場面によっては大切なこともあるのだけど、同じように「分けて考える」ことが他者の尊重に繋がるという事も確実にある。
自分自身が確かに自覚どおりにあり、”そうである”ならば他者もまた”その様にある”というかつてのモノサシがこれで活きてくる。ここで「交換」が初めて成り立つわけだ。
もし何かの「答え」があるのだとしたら、それはある一つの方向から筋道立てて矛盾なく到達するのではなく、かえって「反対(逆側)から」到達へ導かれるんじゃないかと思っている。
矛盾なく”順”で進めば間違いない、というのは、この小さな私たちの頭の、大きな間違いなのかもしれない(ね)。
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!