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自分のモノサシをあてはめない。

普通はさ、って言われるときってあるよね?

「こういう場合"普通は"こうするでしょう?」
「こういう行動のときは"普通は"こういう意図があるでしょう?」
「この言葉は"普通は"こんな意味で使うでしょう?」
みたいな。

それは、その人の、その人のまわりの、その人が今まで関わってきている中での、「普通」なのだろうとは思う。
もしかしたら、社会人一般の、日本の人大部分の、世界の大多数は、とかの「普通」なのかもしれない。

けど、たとえば、私にとって「普通」でなく、私はそんな意図でない、ってことだってある。
私が思う普通が、相手には、別の人には、普通じゃなかった、ってことだってある。

法律とか会社とか学校みたいな、これが普通です標準です(というルールで共通認識もって守ってください)、って明示されたルール上のことを、その決められた範囲の中で「普通は」っていうなら、わかる。
でも、個人とか複数人とかローカルルールとかの「普通」を当たり前に言われてもわからなくない?

なんであたりまえのように、その人の、その人たちの「普通」が誰にとってでも普通だと思うんだろうと思ってしまう。

私は「普通」って言われるのがいやで。
そういう話をすると、「特別じゃない」とされるのがいやなのかと勘違いされてしまう気がするのだけど。
特別とかそういう意味でなく、「私の"普通"がなんなのかを勝手に決められたら困る」ってこと。
一般的に普通はこれで、それに合わせて話したくて、というなら、そう説明してくれないとわからない。

普通はさ、って話されても、私の普通は違うからなぁって思うし。
相手の普通と違うのを常識ないように言われたりしても、お互いの普通がずれてるならどっちがおかしいとかでなくてお互いさまのはずなのにって思う。
(親とか一方的にこっちがおかしいようにいうけどなんなの?ってなる…)

別に、相手の普通はそうなんだっていうのはそれでいいから、私の普通は私の普通でおいといてほしいだけなんだけど。
普通が違ったって別に無理矢理合わせなくてもよくない?否定しなくてよくない?って思うだけなんだけど。

なんで、たとえば外国の人とか明らかに文化が違う場合は、普通が違ってもいいよね、ってなるのに、一見似たような文化に見えそうだと普通を合わせようとするんだろうね?
似たように見えても、背景とか環境とか経験したこととかで全然違うのはわかるはずなのに。

まぁそう言いつつも、自分もつい、自分の普通がわかってもらえる体で話を進めてしまったりするし(わからないと言われないとわからないことに気づかない)、あたりまえのようにやってることがあたりまえじゃないこともある。

できないなりに気をつけようとはしてるし、気づいたりわからないって言われたらそこからでも話をすり合わせようとする気があるから、余計に、これが普通だから、それがわからないのはおかしい、みたいなことになると、もやっとしてしまうのだとは思う。

とりあえず、それぞれが、自分の普通はこうだよっていうのを、合わせなくてもいいから、そうなんだ、って受け取りあっていきたいなと思う。
合わせる必要があれば、それぞれの普通を受け入れあっての話で、多数決とか一方に寄せるとかでなくすり合わせられるといいよね。

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