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嫌な自分となりたい自分 『シックスハーフ』

3年ぶりに会った女子に「大嫌いだ」と言われたことがある。
どうして?と聞いたら、「理由もなくみぞおちを殴られたから」とのこと。「いつの話?」「小学校の時。覚えてないの?」と強い口調で聞き返す彼女は、信じられないといった表情でこちらを見ていた。僕と彼女は小中の同級生で、この会話をしてるのは、互いに受験をひかえる高校3年の夏のことだった。

『シックスハーフ』池谷理香子

ふと目が覚めたら、ベッドのわきには知らない男性が二人。よく見たら部屋も見覚えがない。あれ、自分の名前も分からない。
『シックスハーフ』の主人公・詩織は高校二年生。交通事故にあい、記憶喪失になった。

行く先々で知らない自分の話をされる。しかも相当に悪評高い。過去の自分は一体何をしたのか。身に覚えがないのに、悪評の原因はすべて自分。どこにいても誰からも理不尽な悪意が向けられる。

話に聞く過去の自分は本当に嫌なやつで、絶対に戻りたくない。記憶なんかなくていい。今がいい。でも、記憶が戻ってしまったら? 今の自分は消えてしまうのだろうか。嫌なやつに戻ってしまうのだろうか。

過去に不安を抱えながらも、記憶のない空っぽの自分を満たそうと行動し続ける。今にも崩れ落ちそうな不安定さのまま、表情だけは繕って、懸命に頭と足を動かす。積み重なっていた問題は徐々に減っていき、ようやく視界が開けてきたと思った矢先…。

さて、冒頭のみぞおち事件の続き。
申し訳ないが全く記憶にございませんと言ったら怒られる気がしたので、身に覚えはないが「大変申し訳ありませんでした!!!」と誠心誠意ウソをついた。
あちら様はウソと知らず、「じゃあ、なっちゃんオレンジね」というささやかな要求と笑顔を向けてくれた。ごめんね。でも良い人でよかった。
たがいに地域の公民館を勉強場として使っていたので、その後も何度か言葉を交わした。

今の自分はけっこう好きだ。暴力的じゃない。拳以外で人とコミュニケーションがとれる。言葉って最高だ。
過去の自分に戻りたいとは思わない。

記憶喪失ではないけど、忘れたい自分となりたい自分がいて、忘れたいとなりたいを懸命に追いかけていたら、だいたいのことを忘れてしまった。
人の記憶はたしいたもんだ。自分に都合のいいことだけ覚えていて、嫌なことは忘れていく。

しかし、記憶にはなくとも、現実にはいいことも嫌なことも起きている。
嫌なことを全部忘れてしまったら、いつか同じような嫌なことに出くわす。

詩織は全部なかったことにしようとした。嫌な過去に蓋をしようとした。
けどできなかった。

記憶喪失になったことで、自分の嫌なところ、まわりの嫌なところを全部見る羽目になった詩織は、直視したくないそれらの現実をどうやって乗り越えるのか。もしくは逃げるのか。

いろんなことに打ちのめされて、ボロボロになりながら、でも進む。とても力強い姿だと思った。

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