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昔話に学ぶ《ね》

『おじいさんと孫』

あるところに、

おじいさんと

息子夫婦と孫の四人

が暮らしていました。

おじいさんは、

年をとって目がかすみ、

耳も遠くなり、

力もなくなっていました。

スプーンもしっかり持っていられないほどで、

食卓の上によくこぼしているありさまでした。

息子夫婦は、

それを見るのが嫌で、

おじいさんの食卓は

部屋の隅にテーブルを置いて、

そこで食事をさせていました。

ある時、

おじいさんの手からお皿が床に落ちて、

粉々に割れてしまったのです。

息子夫婦は小言を言いましたが、

おじいさんは、

何も言わずにため息をついていました。

それ以後、

おじいさんには安い木の皿があてがわれ、

それで食べることに決められました。

ある時、

四歳になる子どもが

外遊びから帰ってくると、

小さな板切れを集めてきました。

お父さんが子どもに尋ねました。

「その小さな板は、何をするの?」

四歳の子どもは答えて言いました。

「木のお皿をつくるの。

 お父さんとお母さんに

 食べさせてあげるの。」

これを聞いた夫婦は、

しばらく顔を見合わせていましたが、

おじいさんを食卓へ戻し、

少しくらいこぼしても、

何も言わなくなりました。

おしまい…


ふけぇ…

なんて話だ…

親の介護世代

子どもがいる親世代の

心にバシバシ刺さる話

ではないかい?

でもね

このお話

家族だから

親子だから

それだけの話にあらず

どんなことにもこの話の

核になる部分って

当てはまると思うの

今までは自分がされてきた側

当たり前にしてきていたことが

次に受け手になった時に

心境がようやく分かるというか

ヒトは経験したこと以外は

なかなか感情や心の動きなんかは

想像できないもの

自分では

良かれと思ってやっていることでも

相手は全然感情としては無であったり

悲しくなってしまったりということも

大いにあり得る

年齢によっても変わってくるし

状況によっても変わってくるよね

おままごとやごっこ遊びなら

どんな皿でも

一生懸命に子どもが作ったお皿は

喜んで使うかもしれない

いや

それももしかしたら

喜んでいいことではないのかもしれない

感情に偽りがあるのであれば

素直にお皿はちゃんとした皿がいいよ

って伝えなければいけないかもしれない

でもこれ

伝えられる人は伝えれば伝わるけど

伝えられない人

例えば言語的能力が低下した時には

どうする?

伝えられなかったら

どうなる?

ぽん先生の記事読んだら

大げさに喜んでもいけない気もした

(ホントはぽん先生の記事を読む前に

 下書きに入っていたのですが…

 読んだ後に、少し捉え方が変わりました。)

息子夫婦はきっと良かれと思って

安い皿に変えたんだと思うよ

毎回こぼして

イライラしてしまうのを

父にぶつけてもいけないし

結局処理するのは自分たちだし

おじいちゃんも

割った皿を見つめて

あわわわ…

なんてシーンがあったんじゃない?

いいよいいよ

なんて言いながらも

ショックを受けているおじいちゃん

可哀そうだな…

お皿を軽いものに変えてあげないと

口とお皿を近づけられないな

そっか

木のお皿!

そういう配慮があったんだと思う

勝手にね

でも

その配慮って

伝えなければ

配慮でも何でもない

ただのおせっかいと同意

おじいさんは

年をとって目がかすみ、

耳も遠くなり、

力もなくなっていて

何が楽しみだったのかな

生活の一貫した流れの中では

食事だったりお風呂だったり

のんびりテレビの音を聞くことが

家族が生活している雰囲気を味わうのが

楽しかったのかもしれない

でも

目も見えない

耳も聞こえない

力もない

迷惑をかけまいと思えば

わざわざ主張することだって

辞めてしまうかもしれない

でも

同じように対等に

扱ってほしいのは

人類皆同じ

皿を割るから

ではなく

割らないように食べるには

だったり

木のお皿を悪いように

表現されていたけれど

案外オシャレな木のお皿も

あるかもしれない

食べるのが楽しくなるような

おじいさん専用のお皿を探しに

プチ旅行に出かけても面白いかもしれない

でもそれって

勝手に

だといけないんだよn

勝手にだと

孫の

ままごとやごっこ遊びと

一緒で

そこには配慮や思いやり

なんかは含まれない

親の真似事で

そっくりそのままやっているだけ

そこらへんにある木を

食卓に並べている

そんな風に孫たちには

見えたのかもしれない

これって家族の話だったけど

介助/介護の世界でも同じことが言えないかな

医療の現場でも同じことが言えないかな

教育でも

福祉でも

きっと同じことが言えると思う

経験してみて

ようやく人は

真に理解が出来る可能性がある

理解を100%できることなんてない

私と私でない人は

私≠他者だから

双子でも兄弟でも家族でも

いくら似ていようも

全くもって同じなんてない

一方的に提供する自分勝手なものに

なってしまわないように

常に振り返り

個人、少数で取り組むのではなく

複数名で取り組んで

随時協議する

やりすぎてしまうこともある

趣旨がズレることもある

そもそも全然違ってしまうこともある

失敗はあって当然

そもそも

目的のために動いている

動かない

関わらないよりいい

せっかく動くんなら関わるんなら

よりよいものになった方が

気持ちがいいじゃない

ご縁があっての関係性

由縁、御縁

縁には因が付いてまわる

仏教には

因縁生起という言葉がある

全ての物事には

原因があり

結果が生じる

関わったがゆえに

何かが生まれる

その結果は

どうにでもなるのだけれど

せっかく関わるのであれば

いいものになった方が

楽しいし嬉しいし

なんだか気持ちがいいじゃない

きっと皆頑張っている

頑張ってない人なんていない

そんなこともないんだけど

別に誰かを否定する必要もないし

攻撃する必要もない

『象と六人の盲人』

のコメントでも

話してるんだけど

協議する、考える、擦り合わせること

それ自体が楽しい

そう気づくことが

そもそものスタートなのかもしれない

喧嘩してもしょうがない

攻撃が解決の手段じゃない

話し合うこと、分かりあうこと、

歩み寄ること、関わること

そうやって社会はなりたってる

だからこそ

それ自体を楽しむ

何事も楽しむスタンスは

物事を進める

最初の第一歩なのかもしれない。

興味関心持たなきゃ

何も始まらないよね。

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サポートがなんなのかすら理解できていませんが、少しでも誰かのためになる記事を綴り続けられるよう、今後ともコツコツと頑張ります!