リハビリテーション?
このnoteも細く長くの様相を呈してきた。
たまに、読んでる、と言ってもらえるのが嬉しいので、音楽と同じくらいやめるつもりがない。だからカルトなファンの方に置かれては、ぜひ安心して欲しい。
最近は来るべきリリース(多分来年)に向けて、曲を作りつづける日々だった。
なのでコロナとかコロナじゃないとかあんまり関係なかった。ただ静かにやるべきことが目の前にあって、限られた時間でそれをやるのみ、という感じ。
もちろん葛藤はあって、自分はやはり特殊だな感じるし、学生時代のように特殊さを誇るような気持ちもなくなったので、
ただ空虚な感じだけが残るという感じだ。
これは体感が混ざるから、
おそらく正さなきゃいけない偏見だと思うのだが、社会は、継続的に成功してきた人ほど「個の快楽」を重視するのかもな、とこのコロナ渦を経て感じた。今の会社には社会的に成功してきた人が多いから、周りのこのご時世での活動っぷりをみているとそう思う。
やだなあ、資本主義。
でも、この土地で今を生きている以上、
ずっと見つめなきゃいけないことなんだと思う。人間そのものが競争や価値を求められ、その人間観を刷り込まれる社会で、いかにして逃避と格闘を繰り返すか。
ちょうど次に出る予定の曲たちは、
そんなことをテーマに書いている。
前ほどの過激さはないが、
前より遥かに示唆的にな感じになると思う。
「最も個人的なことは、最もクリエイティヴなことある」
ポン・ジュノがスピーチで挙げていた、
スコセッシの言葉で、正直スコセッシ作品は知らないけど、自分の中に深く刺さった言葉だ。次、いくつか季節を超えた先に出る作品も相当個人的な作品になるはずだ。
それが個人という枠を超えて、色々な人に届いたら素敵だなと、今から妄想をしている。
自分の人生の命題は、
オルタナティブなまま王道に挑むことだと思っていて、社会生活も、音楽もことごとくそのようなテーマにまとまってきた。
Turns blueの“シン・第二章”は
よりオルタナティブな精神性、音楽性のまま、より中央に攻めていければなあ、と思ったり思わなかったり。まあオルタナとかポピュラーとか、そんなくだらないもの、本当はないんだけどね。
この文章が気に入っていただければ、ぜひ。 創作活動(執筆・音楽)のために、使わせていただき、それをまたみなさまにお披露目できればと思っています。