群像/フィクション/エゴ
僕が今関心を持っている三大テーマ。
①群像
群像劇、という言葉はよく聞いたことがあると思うが、
平たく言えば、多くの人々の姿。
フィクションの用語で使われることが多いけど、実際問題この世界は群像劇みたいなもので、いろんな人のライフストーリーがある。
けど、そのさらに上に、疫病だったり、変えようのない制度だったりがあって、そういうものが世界すべてを変えてしまうことがある。
この一年で誰もが生活という群像劇の内容を変えざるを得なかった訳で、それをどう捉えるのかということ、何が変わって、何を変えなきゃいけないのかということを、なんとか創作に消化できないのだろうか。
②フィクション
これは①のテーマに取り掛かっているときに思ったことで、
もはや過去はフィクションの世界になってしまうということ。
何か大きな転換が起きると、その瞬間に過去はさらにそのレベルを上げてもはやフィクションになってしまう。でもそれは普段の生活のレベルでも起きうることで、環境の大きな変化、心境の大きな変化で、昨日までの自分がまるで別世界に、架空の世界に生きていたように思えることが、たまにあるのかもしれない。
良い方から最悪な方へ、最悪な方から良い方へ、平凡から平凡へ。
世界が変わることでいろんな温度の変化があるが、
今まで以上に昔を懐かしむことが増えるのかもしれない。
裏を返せば、それだけ「今この瞬間」の価値が上がっているし、
それを本能的に感じている人ほど刹那的な生き方をする
(してしまう)ということであり、それは良い変化でも、悪い変化でもある。
僕にとっては、最高だった大学の4年から、一気に先の見えない世界に転じてしまった。ずっと青春を懐かしんでいるし、素直に当時の喜怒哀楽を懐かしむことをしてみたい。
③エゴ
自分って非常に理想が高く、欲が深いのでは?と思った瞬間があった。
そして自分が生きてきた環境は「利己」であり続けることで周りの人が喜んでくれるような、もしくはそれが正しいとされるような環境だったのかもしれないと。でもそれは本当にそれでいいのだろうか?
という疑問が湧いて出た。
そのくせ、例えば電車に乗るとき、整列乗車を守らないで各停のレーンから急行に乗ったりするちょっとした他人のエゴには、過剰なまでに敏感だ。
利己的なはずなのに、他人の利己に敏感。
利己的だからこそ、他人に敏感?
結論、よくわからないということだ。
でも、このエゴというものを解き明かしていけば、深部には何かがあるような、そんな直感がある。
ということで、向こう3作は歌詞に困らなさそうです。
この文章が気に入っていただければ、ぜひ。 創作活動(執筆・音楽)のために、使わせていただき、それをまたみなさまにお披露目できればと思っています。