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Elliott Smithインタビュー「ベター・オフ・ザン・デッド」前編

原文

https://undertheradarmag.com/interviews/elliott_smith/

「ベター・オフ・ザン・デッド」2003年3月20日
インタビュアー:Marcus Kagler
写真: Wendy Lynch Redfern

はじめに 

 「インタビューは久々だよ」と、俯きがちに語るエリオット・スミス。「薬物使用について話すかどうか悩んだんだ。でも、なぜ隠すんだろうとも思った。普通は本当のことを言う方がずっと簡単なんだけどね。」

そしてインタビューが始まった......。

 過去3年間、エリオット・スミスの名誉を傷つけるような噂が絶えなかった。様々なショーで曲の間に居眠りをしていたというものや、シルバーレイクのクラブのトイレの個室で、腕に針を刺されて気絶しているところを発見されたというものまである。昨年11月にLAで行われたザ・フレイミング・リップスとベックのライヴで、彼が法に触れるようなことをしたことは、熱狂的なファンの間で悪名高いものとなっている(著者注:彼はロサンゼルス市警の警官と乱闘騒ぎを起こしている)。しかしその間、スミスは不可解なことに沈黙を守ってきた。噂が流れるのを喜んだか、あるいはするべきことをこなすのに精一杯だったのかのどちらかだろう。ただ単に、気にしてないだけだろうというのが大方の見方だったが。
 もちろん現実の人生は、噂で語られるほど白黒はっきりした世界ではありえない。エリオット・スミスの人生も例外ではない。実際スミスは自分について言われたことを気にしている。この数年間、彼はかなり忙しかった。薬物乱用の問題と闘ってきただけでなく、スミスはマンモス級のニューアルバムの制作に励んできたのだ。彼は結局のところミュージシャンであり、新譜がほぼ完成した今、スミスは話したいことをいくつか抱えている。そこで、もしあなたがまだ興味を持っているのなら、彼の言葉で誤解を解いていこうと思う…。
 この数ヶ月、もうひとつの小さな噂が流れていた。スミスが薬物とアルコールを断ち、仕事に復帰する準備が整ったという話だ。ほとんどのファンはその噂を信じるために、気をもむのではなく、実際にその目で確かめたがっている。そしてもう待つことはない。この噂は100%真実なのだから。だから大々的に伝えようじゃないか。エリオット・スミスが帰ってきたと!

アミノ酸治療による贖罪

 「あなたのファンの多くが疑問に思っています。Figure 8のツアーをやめてから、この2、3年は何をしていたのかと。」エリオット・スミスファンなら誰もが疑問に思うことだが、アンダー・ザ・レーダー誌の編集デスク、マーク・レッドファーンがその疑問をぶつけた。1月の寒い夜、カメラマンと私はスペースランド(筆者注:1995-2011年に営業していたインディー・オルタナロックのバー。ロサンゼルスのシルバーレイク付近にあった。)のテーブル席に座っていた。オレンジ色のシャツに茶色のズボン、左腕には「more PRICKS than KICKS)と黒いインクで書かれている(筆者注:サミュエル・ベケットによる小説「蹴り損の棘もうけ」)。彼は数時間後にここでクリーンニードル・ベネフィット・コンサートに出演することになっているが、まだ練習はしていない。しかし彼は質問にためらうことなく答えた。    

スペースランド。https://en.wikipedia.org/wiki/Spaceland 引用。筆者による挿入。

 「何一つ良いことなかったよ。」彼は半笑いで語る。「でも半年前からよくなってきた。これは僕にとって身近なテーマだけど、僕だけの問題じゃないんだ…薬物使用についてのことだから。僕の場合、2年近く巻き込まれたよ。それから、神経伝達物質回復センターというところに行った。普通のリハビリ施設とは違ってるんだ。静脈内治療といって、腕にカテーテルを入れて点滴をするんだけど、点滴の中に入っているのはアミノ酸と生理食塩水だけなんだ。精神科に処方された薬とかを、大量に断薬してた。僕は精神病でないのだけれど、抗精神病薬を服用していたこともあった。本当に大変だったけど、28日間のリハビリ施設に入院させるほどの費用はかからないから、このことを広く知ってもらえたらと思う。普通は10日くらいなんだけど、僕はそれより長かった。たいていの人は1週間くらいで終わるんじゃないかな。ギャンブルの問題で行く人もいるみたい。」

 エリオット・スミスと話をするのは大変だ。なぜなら質問をしても彼は答えないから。ただ顔を歪めて、心の中で質問と戦っている。そしてとてもゆっくりと、意図的に子供っぽく話す。脂ぎった黒髪をかきながらその時々に心に浮かんだことを話題にするから、脈絡が失われてしまう。意図しないのに文章の途中で話題を変えてしまう癖もある。だから質問にきちんと答えてもらうのは、ちょっと難しい。

 「アミノ酸を全身に浴びせることで、感覚器官を刺激し、老廃物を排出するんだよ。アミノ酸に含まれる様々なタンパク質が、最終的には傷ついた神経細胞の感覚器官を再生させるんだ。でも誰もこのことを知らないみたい。一万五千人がこの治療を受けていて、その成功率は通常の28日間の12ステップ・プログラムの10%に対して、80%なんだ。」

 注意したいのは、彼が言うビバリーヒルズの神経伝達物質回復センターは、FDA(筆者注:アメリカ食品医薬品局のこと。食品や医薬品などの消費者と接触がある製品について、安全性の検査や違反品の取り締まりを行なう)の認可を受けた治療施設ではないということだ。アミノ酸の施術を開発するのに不可欠だったヒット博士という人が、このセンターを運営している。この治療法は、ハードな薬物使用者にとっては、禁断症状をほぼ完全に消し去ることができるという利点がある。神経伝達物質の回復治療は医療保険が適用されないが、それでも1日約1000ドルという費用は、一般的な28日間のプログラムよりはるかに安い。現在、ヒット医師はメキシコでアルコール依存症の司祭を治療している。

 スミスはこの治療に対して奇妙な反応を示したと続けるが、それは彼は特別なケースだったためだ。「僕は色々なものから切り離されていたから、変わった反応を示したんだ。この治療法はとてもいいものだし、お勧めできる。でも僕にとっては衰弱していくような感覚で、ただただ疲れるだけだった。水一杯にも手が届かないほど弱っていることに、かなり苛立ったよ。」

 スミスがヒット博士と神経伝達物質回復センターに連絡を取ったのは、最後の切り札だった。「デトックス施設に何度か入ったことがあるんだけど、最初の一歩を素直に踏み出せなくて、28日間もいられなかったんだ。それは、プログラムが間違っているという意味じゃなくて、ただ、僕が言うべきことを素直に言えなかったというだけのことだよ。治療に専念している他の人たちの邪魔をしたくなかったし、僕はステップを踏んでいなかったから。」

 彼は短期記憶が完全に戻っていないことを認めているが、そのうちよくなるだろうと期待している。長年にわたる薬物・アルコール依存症の末に、エリオットスミスがついに麻薬とアルコールから手を切り、回復してわずか6ヶ月で仕事に復帰したことは、本当に奇跡としか言いようがない。もっとも、その道のりは決して平坦なものではなかっただろうが。実際、彼はニューヨークに住んでいた頃、「ひどいアルコール依存症」であったことを認めている。今では夕方にビール1本飲むのがやっとだという。

「12ステップ・プログラムでも、神経伝達物質回復センターでもどちらでもいいんだけどね。世間では薬物使用について話すことさえタブー視されているけど、ミュージシャンには薬物の問題が加わってくる。音楽をやらない人には無関係なメロドラマが、ミュージシャンの薬物使用にはつきまとう。そういうわけで薬物使用は踏み込んじゃいけないテーマなんだ。実は、自分ではなるべく避けようと思っていたけど、僕も薬物の問題を抱える人たちと変わらないから、話す機会を与えられれば、話すと思う。」

 スミスは薬物使用を語ることで社会貢献に努めている。というのも、バーの椅子に座り、膝に手を置き地面を見つめる彼には、臨時慈善興行の枠を超え、代替薬物治療について広く知ってもらうという無私の心があるのだ。それに加え、スミスは前作「Figure 8」のリリース直後から、虐待を受けた子どもたちのための基金を立ち上げている。この財団は彼が薬物問題に対処している昨年の間休止状態にあったが、今では彼の最優先事項となっている。スミスのガールフレンドで、バンド「ハッピー・エンディング」のジェニファー・チバは後に、彼が自分の財産に気詰まりしており、それが財団を始めた理由の一つであることを語っている。スミスは自分のためにお金を使うよりも、他者のためによいことをしたがった。

 今夜のチャリティーコンサートは、スミスにとって身近なテーマである。注射針交換プログラムとは、HIVや薬物に関連する病気の蔓延を防ぐために、静脈注射をする人に無料で清潔な注射針を提供する非営利組織である。「もっと多くの人に、病気の蔓延を抑える有効な選択肢として受け入れてほしい。」そう言うと、彼はテーブルの上に置かれたキャメルの箱からタバコを取り出した。「ぱっと思いつく限り、静脈注射をする人たちを救うためには、何かを継続させるための資金集めが一番重要だと思う。」彼は顔をしかめてタバコに火をつけようとしたが、思いとどまった。「ここでタバコを吸うべきではないね。それは別の中毒症状だから。」

便利屋と旧友

 それからおよそ2か月後に、私たちは再びエリオット・スミスと話す機会を得た。今回は、エコー・パークの平屋に挟まれた並木道の丘に建つスミス邸にご招待いただいた。それはエコー・パークに立ち並んだ平屋のひとつであり、並木道の続く丘の上にあった。

https://justiceforelliottsmithcom.wordpress.com/2016/01/05/our-visit-to-elliotts-house/comment-page-1/ 引用。筆者による挿入。

 彼の家の玄関にたどり着くには、崩れかけたコンクリートの階段を下り、伸びっぱなしの雑草が生い茂るジャングルの中を縫うように歩かなければならない。現在、スミスは友人で現ドラマーのロビン・ペリンガーと台所のテーブルでブリトーを食べている。左腕に黒いマジックで「Kali the Destroyer」(筆者注:ヒンドゥー教における女神。殺戮と破壊の象徴とされる)と書いている最中でもある。今日は茶色のズボンに「I Love Metal」と書かれた黒いTシャツを着ている。

https://media.gettyimages.com/id/86138496/ja/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%88/photo-of-elliott-smith.jpg?s=1024x1024&w=gi&k=20&c=1KsB7phMNYjriyrK2ghU_bFu6xr69lbqUSDZBRU-dQ4= 引用。筆者による挿入。

 リビングルームには録音機材が散乱し、スミスが最近いじっているiMacもある。コンピュータの横にはスピーカーがあり、家中がアンビエントなハウリングで満たされている。最近ノイズやさまざまな種類の音で遊ぶことに熱心に取り組んでいる彼は、流れているものを何か形のない歌に変えたいと言う。ロボットのような4トラックレコーダーの横に、五味太郎の絵本「みんなうんち」と大きな絵が飾られているが、サウンドボードの回路図が被さってよく見えない。 音響機器の他には、床一面本が山のように積まれている。コンピュータの横にはサリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」が、スピーカーの上にはフーコーの「臨床医学の誕生」が置かれている。そしてハインリッヒ・ベルの「女のいる群像」の隣には、ヒートマイザーの最後のアルバム「Mic City Sons」のコピーが置かれている。

 一応言っておくと、Heatmiserはスミスと親友のニール・ガストが80年代後半に大学を卒業した後、オレゴン州ポートランドで結成したバンドである。スミスのオルタナティヴなアコースティック・ソロとは異なり、ヒートマイザーは、グランジにしてはヘヴィーすぎるラウドなハードコア・バンドだった。

https://pitchfork-com.translate.goog/features/article/9246-keep-the-things-you-forgot-an-elliott-smith-oral-history/?_x_tr_sl=en&_x_tr_tl=ja&_x_tr_hl=ja&_x_tr_pto=sc 引用。筆者による挿入。ヒートマイザーの写真・一番奥がエリオット。

 「長い間本当にうるさいバンドで演奏していて、当時は到底いいバンドとは思えなかったよ。でも最近聞き返すようになった。ちゃんとした理由なしに、バンドのことをこき下ろしているんじゃないかと思って。それはそうとして、一番の問題は僕の歌い方で、他のメンバーとは関係ないんだ。一人でインタビューを受けるようになった当初、僕は彼らとの間に距離を置いていたんだけど、それと自分の歌い方が好きじゃないということを区別していなかった。実際『あのバンドは最低だ』と言ったこともあって…本当にダサいよね。後悔してる。それ以来、ニールとは話すようになった。取り返しのつかないことだと理解してくれていると思う。最低だよね。そのことでしばらくの間、彼を苦しめたと思う。」

 ヒートマイザー時代について語るとき、スミスは気乗りしていない。ヒートマイザーの音楽は彼がずるずると避けてきた話題だが、今回、その時代のエピソードについて話してくれた。「ヒートマイザーの最後のレコードが出た頃、ニールと僕は失業中だったから、リリースで出た利益は芸術助成金だと思ったんだ。」彼はかすれ声で笑った。「でも、ポートランドで砂利を撒いたり、竹を移植するような便利屋もやっていたよ。ある時、倉庫の屋根に熱反射塗料を塗るという仕事をしたんだけど、最悪なことに、全身を火傷してしまった。不思議なことに塗料は黒色なんだけど、塗ると銀色になって、太陽の光を反射するんだ。信じられないような日焼けをしたんだけど、そんなことになるとは思いもしなかった。」

 スミスは不運な運命をたどったバンドから学んだ教訓について、このように語った。「音楽的にやりたくないことがたくさんあるんだ。僕とニールは二人とも、自分たちの曲がいかに楽譜どおりに聞こえるかということにとてもフラストレーションを抱いていた。どんなにめちゃくちゃな構成でも、始まり方がどうであれ最後には…うまく言えないけどタイト(筆者注:きれいな音で、出だしが正確でシンクロしているバンド。演奏者の誰一人としてテンポを崩すことなく演奏しているバンドのこと)になるんだ。タイトなバンドになろうとは思っていなかったんだけど、ライブが終わった後には『タイトだったね!』と言われた。それと、高校時代に僕やニールをバカにしてたような連中がどんどんライヴに来るようになったんだ。」

 エリオット・スミスをはじめとする多くの人の目には、ヒートマイザーは失敗する運命にあるバンドとして映っていた。スミスは自分がバンドに長く留まったのは、ニールのためだったと言う。だからヒートマイザーが1996年にヴァージンと契約したとき、それは大ブレイクというより、むしろ死の宣告だった。「ヴァージンと契約した直後にバンドを辞めるだなんて、ある時点まで運んでいたボールや爆弾を落とすようなもので、ばかばかしかったよ。言ってみれば楽に稼げる仕事、当時のバンドのことだけど、それをだめにしたのは僕だったんだ。契約後すぐに解散したからね。 メンバー脱退に関する条項があって、そこでやられたって思ったんだ。というのも、バンドが解散する場合、メンバーの同意の有無にかかわらず、同じ条件で契約を維持することになっていたんだ。メンバーはニールの選択を取らず、僕の選択だけを採用した。メンバーには、契約したのはバンドの解散を望んでいたからだ、とかなんとか言われて、めちゃくちゃな事態になったんだ。ニールの目の前でそう言われたんだから、ひどかったよ。」

 ヒートマイザーがMic City Sonsを完成させた直後、バンドは解散を宣言し、スミスにはもう望まなくなったヴァージンレコードとの契約が残された。しかし彼には、ヒートマイザー時代と連動した別の歴史があった。14歳のときから借りた4トラックで曲を作っていたのだ。だからヒートマイザーの活動をしていないときは、必死にアコースティック・ソロの曲を書いて録音していた。「最初のソロ・アルバム『Roman Candle』は、借りた4トラックと、借りたギターで録音した最新の8曲だけのものだった。当時のガールフレンドが、これらの曲をCavity Search(筆者注:レーベルのこと)に送るよう説得してくれたんだ。彼らが僕のレコードを出したいと言ってきたときは、本当にショックを受けたよ。 当時流行っていたグランジとは正反対のものだったから、発売されたらすぐに首を切られるんじゃないかと思って。(アコースティック・ソロは)特にきっかけがなく、ただ何年もやっていただけだった。それで何かを出すということは思いつかなかくて、むしろ、何も出すまいと思っていた。だけどそのアルバムは本当に評判がよくて、すごくびっくりした。そして不運にも、すぐに前のバンドを凌いでしまったんだ。」

 言うまでもなく、Roman Candleの成功と、それに続くソロ・アルバムElliott Smithはバンド内、特にスミスとニール・ガストとの間に緊張を引き起こした。だから、Heatmiserが長い間待ち望んでいた崩壊を迎えたとき、スミスはいくらか安心した。バンドがMic City Sonsをレコーディングしている間、スミスは3枚目のソロアルバムEither/Orをレコーディングしていたのだが、このアルバムはその時点までで、最も成功したアルバムとなった。しかしこのアルバムはほとんど公開されなかった。「あのアルバムでは神経衰弱になりかけたけど、一番よく覚えてるよ。」と彼は真面目に語る。「そのためにたくさんの曲をレコーディングしたんだけど、そのうちの1つか2つが最悪だった。そして3、4曲が最悪になった。結局全曲が最悪で、僕のやることなすこともひどかった。 僕は決して十分じゃない。そういう思考回路だったんだ。完全に自信を失ったけど、発売直前に『そうじゃない』と決心した。ある人たちが『もういいじゃないか』と言ってくれたから。それから1年後くらいに、もうそんなに悪いとは思わなくなった。今となっては、自分でレコーディングしたからプレッシャーがなかったという、良い部分を中心に覚えてるよ。その後『Either/Or』の後にオスカーのことがあって、僕の列車は脱線してしまったみたい。完全に脱線するまでには、かなり時間がかかったけど…。」

後編につづく

著者より

 分かりやすくするために、原文にはない画像や注釈を挿入してみました。一万字超えのロングインタビューですので、記事は前後編として公開します。誤訳や誤字脱字、ご感想やご指摘あればいつでもお待ちしております。