見出し画像

歌舞伎大丈夫か/歌舞伎鑑賞教室(国立劇場)


 
 小糠雨に視界が靄っていた。

 半蔵門の駅をでると劇場への道のりに人の姿はなく、これは、開演の時間をまちがえたかと…確信した。慌てて足を速めたが、それでも遅れて急ぐ観客の一人や二人ぐらいは必ずいるものだ。だいぶの遅れか、大きく時間を失念したか、あるいは日付を間違えたか。
 劇場の角を曲がっても人気はなく、しまった、と思いつつ、少し気が重くなった。切符は税理士さんにいただいたものだったから。
 ところが…入り口は開いていて、捥りのお姉さんに、「開演5分前です、お急ぎください。二階四番扉からお入りくださいと」告げられて、あれ間に合っていると、訝しんだ。階段をたたたたた、と、駆け上がりながら、今日のお客はなんて行儀が良いんだろう。全員時間前に会場に入っているではないか…。二階の四番扉を開けると、吃驚した。二階席には30人ほどのお客しかいなかった。
 二階席最前列から下を覗くと、大学生らしき一団と、切符をいただいた計理士さんの、一団が見えた。国立劇場「歌舞伎鑑賞教室」。日曜日にも係わらず、どうだろう全部で100人は越えているかもしれないが、絶対に500人はいない。がらがらの国立劇場。閑古鳥がからからと笑っている。

 「歌舞伎のみかた」の解説は中村扇雀の息子の中村虎之介と扇雀の部屋子の中村祥馬。
まずは、劇場の基本構造を説明するものだったが、まぁまぁ、相当の手抜き。誰が台本書いたんだが知らないが、なんだかな。だいたい、虎之介のトークが酷い。アドリブを入れられるのが役者の力量とばかり、中村鶴松を上から喋りでアドリブを飛ばす。受けられないとからかう。楽屋落ちというか、役者同士のからかい、客いじりに終始していて、出来の悪い井口浩之(ウエストランド)の雰囲気に似ている。

 南座の『歌舞伎鑑賞教室』に通った身としては、そして夜想『歌舞伎はともだち』を編集するにあたって、竹柴源一さんに一から歌舞伎を習って、すぐさま、実践と、ディレクターになったばかりの湘南台文化センターで、歌舞伎鑑賞教室を藤沢市の企画として開催した身としては…素人に劣る歌舞伎鑑賞教室の企画にがっかり。
 湘南台文化センターの時は、市川團蔵、片岡千次郎(現・上村吉弥)、中村芝喜松(現・中村梅花))中村扇乃丞(前進座・高瀬精一郎の次男)…。舞台に楽屋をしつらえて、楽屋入りから化粧そして、続いての本舞台の出までを解説付きで、そして舞台装置を見ているところで組んで、そこに千次郎が出てくるという舞台。若手の腕の良い役者を選んで連れてきてくれた。当時は、人に見せるものではないという化粧の場面を、千次郎が見せてくれた。

 団蔵さんも本気で踊ってくれた。その時、浴衣での稽古でみた力強い立廻りの踊りに圧倒された。重い衣裳を着るからね、衣裳に力を叩きつけるようにしないと、ちっちゃくなっちゃう。同じ気持ちは先代の中村雀右衛門さんも言っていた。団蔵さんできるだけ、迫力が伝わるように踊っていただいた。湘南台の舞台に出た千次郎が、すぐに上村吉弥を襲名して、南座の応援で、ずっとずっと『歌舞伎鑑賞教室』を落語家の桂九雀がとともにつとめてきた。桂九雀は、真摯に謙虚にそして面白く歌舞伎に体当たりしていた。
 引き立ててもらえる家もない吉弥ももちろん、真剣だった。そうしてその鑑賞教室の吉弥に惚れた、小学生低学年だったかの、子が自らの意志で歌舞伎に入りたいと言ってきた。子役を経て今ちょっとした若手で注目されている上村吉太郎がその人。彼は鑑賞教室で感動して役者になった。
 吉弥もまた素人の子で、舞台写真をこっそり撮っていてつかまり、「歌舞伎好きなんです!」ということで、片岡我當さんの部屋子になって、上村吉弥という幹部名を襲名するまでになった。吉弥と同じく、鑑賞教室というのは、歌舞伎を知らない人にも感動を与えて、引っ張り込まないと成立しない。舞台の知識を得意気に話していては駄目だ。そんなことで人は観客にならない。

 歌舞伎に嵌まったり、歌舞伎に飛び込んできたりするのは、それまでにないものを、勝手に感動することが必要で、たとえば竹柴源一さんは、新劇の裏方から、松緑さんの舞台を見て衝撃を受けて途中から入ってきている。松井今朝子さんは、舞台で巨大化して見えた歌右衛門に惚れて、歌舞伎に埋没するようになる。通常心を越えて感動してしまう舞台、演技こそが、歌舞伎入門なのである。
 ちなみに自分の場合は、竹柴源一さんの所属していた菊五郎劇団のゲネプロでの、菊五郎の役者っぷり——舞台でダメ出しを出しているその声と台詞みたいに見える語りと…に惚れ惚れ。あとは、三階さんたちの芸を見て吃驚した。これは小劇場やアングラにないものである。裏方好きとしては、三階さんと一体化している菊五郎さんの芸に惚れたということ。六代目からの劇団システムで歌舞伎を上演していることにも惹かれた。

 今回も八幡の大蛇を演じる、そして解説のときの立廻りをしている一人が、一際際立って、とんぼや還り越し決めいた。鑑賞教室、こういう人を、さっと紹介して、その魅力とシステムを披露するのは鑑賞教室でしかできないことだ。調べたら(パンフレットに紹介も写真もない。しかもイヤフォンガイドでも紹介しない。駄目だ~。)その人は坂東八大さん。たぶん八大さんだけ、菊五郎劇団からかりてきたのだろう。
 菊五郎劇団は、そもそもトンボの巧い人がたくさんいて、それは劇団十八番のめ組の喧嘩とか、立廻りの舞台を見ると立廻りの活躍場がたくさんある。僕が、歌舞伎にのめっていた頃は、菊五郎劇団には立師が二人もいて、菊五郎さん系の菊十郎さん、松緑さん系の松太郎さんが、それぞれの家の感じを反映して、しのぎを削っていた。だいたい六代目菊五郎さんは、旦那でありながら、とんぼを返ったと、菊十郎さんが自慢気に証言している。(『歌舞伎はともだち』入門篇、『歌舞伎はともだち』三階さんを読んでもらえるとわかる。)伝統的に菊五郎劇団はとんぼが上手。ちなみにとんぼを切ると云う人もいるが、まちがい。トンボは返る、あるいは、旦那が絡んでいたら旦那に返してもらうと表現する。

出し物は『日本振袖始』。
ちょっと意外だったのが、扇雀さん。ストイックな感じの踊りで、今までみた扇雀さんの踊りの中では一番好きかも…でした。お父さん亡くなられて心境が変わられたのかも。
あとは、稲田姫を演じた、中村鶴松——この方も、お家の子ではなくて、勘三郎さんのところのお弟子さん。可憐な雰囲気をもっていて、好感がもてる。将来、有望かも。

ところで、自分の方の大丈夫か。
を一つ二つ。歌舞伎の見る時はパンフレットを読まずにイヤフォンガイドを聞かないで、見る。この時は、経理士さんが、イヤフォンガイドを借りていてくれて渡されたので、初めて使った。そして劇場の上下には、オペラなどの時に使う翻訳の字幕が。義太夫狂言の文句が流れている。踊りの場面ごとに、イヤフォンガイドは説明をしてくれて、なおかつ狂言の言葉が分かるので…ああ、きちんと踊っているんだなと…自動的に理解できる——ようになっている。

歌舞伎の舞踊を、向こうから踊りが身体に入ってきて感じられるようになるまで、ただただ、待っているように教わって、それで少し踊りが感じられるようになった——ということからすると、ちょっと状態が違って見ている。自分と扇雀さんの踊りの間の空間に、[答え]になった形があると云う感じだ。答え正解な状態の結果を見るような…扇雀さんや国立劇場に何か云っているのではなく、自分に問うている。それで良いのかと。上演されている『日本振袖始』は、近松門左衛門の作を、戸部銀作さんが脚色したもので、元々は、先代猿之助の上演のために作られた脚本である。それを鑑賞教室ように、大胆に、登場人物をカットしている。YouTubeで、猿之助、玉三郎の上演をフルに見ることができるので観賞した。大夫に説明的な踊りであるし…つまり物語優先の振付になっている。戸部銀作は、猿之助用に戯曲を脚色した人で、猿之助流の宙乗りを作った人でもある。戸部作品は、物語を観客の側に分かるように設定してくる方で、猿之助ももちろん、歌舞伎の脚本を理解してもらいたい、分かって見てもらいたい、分かる中で演じたいという演技の役者だ。分かりやすく云えば、観客の中に[答え]を出してくる役者なのである。

今回、イヤフォンガイドを使ってはじめて、そんな考えが浮かんできた。つまり自分の方が、踊りを見れる/感じられるということに終始していたのだが、歌舞伎の踊りは、すべての踊りが舞台の上で見るものを待っていて、何かのルートが通じた時に、踊りが心の中に飛び込んでくるものだと、思い込んでいたが、そうでない踊りもあるのだということを改めて気がついた。

大丈夫なのか歌舞伎舞踊を見る自分——。
そんなことを自分に云ってみた。時は残されていないが、されど、気がついたからには、さらに多様に踊りに目が近づくことができるような気もする。歌舞伎の現在と未来は少々心配だが、舞台は見続けていこうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?