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2.5次元でなく/スタジオライフ『La Passion de L’Amour』

1。スピンオフの新作に近い
 今回上演の『La Passion de L’Amour』は、2013年シアターサンモールでの『カリオストロ伯爵夫人』を書き換えたもの。どこが違うかと云うと、登場人物を4人カリオストロ伯爵夫人ことジョセフィーヌ・バルサモ(関戸博一/青木隆敏)怪盗ルパンになる前の若き二十歳のラウール・ダンドレジー(松本慎也)、ラウールの恋人であり後に妻となるクラリス・デティーグ(イッツフォーリーズ)ムッシュM(石飛幸治)の4人に絞っている。公演場所は、西新井にあるスタジオ・ライフの本拠地、ウエストエンドスタジオなので、これまでの公演劇場に比べたら小さい。言い方を変えれば稽古場公演用にメンバーを少なくして見やすくした——のだけれども、むしろパワーアップしているようにも見える。
 元々の『カリオストロ伯爵夫人』は、「アルセーヌ・ルパン」シリーズの著者モーリス・ルブランの原作で、若きラウール・ダンドレジー(後のアルセーヌ・ルパン)が、カリオストロ伯爵夫人と絡みながら、どのようにしてアルセーヌ・ルパンになっていくかという物語。今回は、視点をジョセフィーヌに変え物語の風景を一変させた。前作の戯曲をスピンオフした倉田淳のオリジナル物語に近い。『カリオストロ伯爵夫人』は、美術宇野亜喜良、音楽が書下ろしで村井邦彦。村井はGSに名曲を提供しYMOがレコード会社アルファレコードを設立した人。僕に言わせれば神様みたいな人だ。カラオケでも良く歌う、『暗い日曜日』(ビッキー/オックス)『エメラルドの伝説』(テンプターズ)『夜と朝の間に』(ピーター)『廃虚の鳩』(ザ・タイガース)『朝まで待てない』(モップス)…とか、まだまだ人生のフェイバリット曲ばかり…メロディーが良いだろうか、とにかく心に残る。
 物語の書き換えに従って、村井に新曲二曲を書き下ろしてもらっている。歌詞が物語に組み込まれていて、歌詞は台本の一部であり、ト書きにも台詞にもなっている。新作以外の元の楽曲の詩にも手を入れていると聞く。スタジオライフは、元々、ストレートプレイを得意としているので、言葉は大事だ。

2。ストレートプレイ
 今回の、舞台でふと思いだしたのは、1979年、三島由紀夫『サド侯爵夫人』のルノー+バロー劇団の草月ホール公演。マンディアルグの翻訳で仏蘭西でも評価の高かった『サド侯爵夫人』を仏蘭西から逆輸入して上演した。マンディアルグ夫妻来日に合わせての公演。雑誌『夜想』がマンディアルグ+ボナで創刊した時。もちろん公演を見に行った。不在のサドを夫人たちが台詞によって屹立させるというもので、役者たちは道具のない(記憶では)舞台で、棒立ちのようして最小限の動きで、舞台の景色をサドを描いていく。これがストレートプレイというものだと、知ったのはだいぶ後のこと…。スタジオライフの取材のときだったかもしれない。(『夜想』ヴァンパイア特集)倉田淳は、もともと、本格な演劇を目差していて劇団員をイギリスのワークショップに参加させたり、あるいは日本でワークショップを開いたりして、道具なしでも役者同士の演技で成立する演劇を目差している。今回は、少しロマンティークな仏蘭西風ストレートプレイ、バロー劇団流という感じだろうか。(おそらくボクだけの感想だろうけど…)稽古場にも使っているであろう本拠地の小さな劇場で、道具も照明も最小限度に、役者が言葉をもって演じる——という演劇の原点をストレートプレイで、スタジオライフの面目躍如というところだ。役者たちは、誰一人、この役者同士のバトルから逃げることなく、最初から最後まで熱をもって疾走していた。

3。2.5次元ではなく。
 スタジオ・ライフは、男だけの劇団で、倉田淳が、萩尾望都の『ポーの一族』を舞台化を目差してはじめた劇団だと聞いている。『ポーの一族』は、その時点で、宝塚に上演権があって、上演はかなわなかったが、倉田は、次々に萩尾望都の作品を舞台化していった。萩尾望都原作の他にも『ドラキュラ』のような作品もあれば、皆川博子の『死の泉』、あるいは鏡花とか…耽美と云われている作品を中心に倉田が戯曲化している。小説の場合だと『ドラキュラ』のように抄訳にされがちな部分も、フルに舞台化する。しかも飽きさせない。小説の行間、構成の妙、作品成立の動機を読み解いて、舞台の言葉にする。どっしりした戯曲になっている。
 劇団員は男子だけで構成されている。そしてコミックを原作にしている…というと少し前なら男版宝塚、今なら2.5次元と見られがちだが、ちょっと違う。倉田淳というのは、とてつもない才能をもっていて、二次元のコミックキャラを俳優の身体に演劇として置き換える脚本を書く力がある。この演劇的というところが、言うに言われぬ感覚で、コミックキャラを壊さないようにしながら、役者が演じられるように脚本化する。キャラを俳優の身体に呼び込み、舞台上で合体させると云ったらよいのだろうか。本当は存在していないコミックの肉体を、俳優にのせるのだ。そしてそれぞれのキャラの感情も描き出す。2.5次元はどちらかというと、俳優がキャラの方へ行く感じだ。もちろんそれだから良いという演技もある。映画『キングダム』の吉沢亮や山崎賢人は、二次元になり切って演技的にも成功していた。『キングダム2』では、その間によりTVドラマで使われて、その演技をするようになってかなり駄目になっていた。自分の演技に引いてくるには相当の演技力を必要とする。TVの顔だけ演技ではとても覚束ない。変にちゃらいし。で、もう一つ云えば、萩尾望都や皆川博子の登場人物は、作家たちの想いあって生まれた存在である。けっして企画書、設定とかの二次元から生まれたものではない。つまり作家個人の意向、作家の生きた人生がもとになって書かれていて、もともとどこかに身体や人生を宿している。倉田はそれを見つけて、スタジオライフの俳優の身体に乗せ、その上で舞台構築するのだ。
 

4.未来
 少人数でのストレートプレイ。新鮮だった。しかも女装している男優という感じを微塵も受けず(それはスタジオライフを見えた中でもはじめてのこと)そこには演技をしている身体があって、それが役がらによって男と女と不思議な人物に振り分けられている感じだった。そしてもう一つ感じたのは、役者たちが、明るさをベースに舞台にいるということだ。これは、戦争もパンデミックも、そして来るべき経済の崩壊の中で、なかなか難しいことだ。今、演劇は舞台の上にも客席にも暗い影がある。しかも満員にならない。歌舞伎座は襲名公演で満員に近かったが、襲名に相応しくなく、舞台も客席も陰気だった。これが歌舞伎か?と思えるほどに。
 ウエストエンドスタジオは、舞台にかける役者と演出家の覚悟が、客席に伝わって、満員の観客が息も入れず一気に受け止めて一体化していた。コロナがはじまってから、今日までの舞台の中で、もっとも熱の高い公演だったと思う。演劇はこの時代に生き延びることだけを考えるのではなく、今の時代だからこそできる表現、形態を作り出さなくてはならないだろう。多分、『La Passion de L’Amour』は、その一つの道だと思う。観客も俳優も元気をもらえる舞台が今必要だ。

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