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日々是徒然2024年頭-①


日記風に。

 戦争は未だ終わる様相をみせない。アメリカの支援がほぼ停止しウクライナは弾切れになって、戦線を引いた。プーチンはすかさず現状での停戦を提案した。ウクライナはそれを聞くわけにはいかない。ルールなしの戦争を行なうプーチン/ロシア軍は、体制を充実させてまた攻め込むに決まっている。20世紀の初頭から半世紀、世界で戦争が続いていた。21世紀初頭再び、世界で戦争が勃発している。どこかで収まるのだろうか。そして収まったのちの戦後体制は非常に難しい。
 さらに世界中で災禍が常態となってきた。気候変動の影響はさらにスピードを増して深刻化するのだろうか。
そんな、厳しい状況が2024年明けの現実だ。

 戦争が起きてから、ずっと小泉悠の言動を中心にTVを見続けてきた。高橋
杉雄にも東野篤子にも耳を傾けてきた。そしてロシアの起した戦争の理由などを考えながら、ロシア文学を読み続けた。戦争はいろいろなファクターによって継続される。分析も軍事、地政学、政治、経済…考えられるほぼ全部の分野に渡っての分析が必要になる。生物学の《均衡》という概念も前線での膠着状況を説明する一つの考えになる。大学の頃に地政学を搦めて卒論を書いた。(澁澤龍彦の亜流ですかこれは学問ではないですよと諭された)今にして卒論指導の教授に謝りたい気分だ。たしかに。そしてその地政学すら、戦争の継続を説明できる切り札ではない…(ということが最近分かった)

 イスラエルが報復と銘打って全面戦争を宣言したとき、ゼレンスキーも小泉悠も日本政府も、イスラエルを素早く軍事支援したアメリカに追随した。アメリカは空母を待っていたかのように(そんなことはないのだけれど)移動させた。ウクライナにもその位の軍事支援をしてあげれば良いのに。中途半端に小出しにしたり、口約束だけでいろいろ言訳をして出さないというのは、どうかと思う。アメリカは正義という名の元に、勝つ戦争あるいは力任せな戦争しかしない。アメリカの正義は、大国の力による駆逐という正義だ。ロシアと正対する正義も覚悟もない。そのくせロシアはアメリカに正対して核を打つかも知れないとびびっている。日本の論客も、たとえば浅田彰や内田樹は、ウクライナは欧米の支援を受けて、プーチンに勝つだろうけど、いじめ過ぎてはいけない。反撃が怖い。戦争責任をとらせるにしても過剰ではいけないと、ゆるゆるの分析をしていた。この戦争の解説はアメリカの方法に対して強く意義をとなえることなく2年半続いてきた。アメリカだって力による現状変更を行なっている。存在しない化学兵器の存在を理由に。それとナチが居ると言って攻め込んだロシアとどこが違うのだろう。ロシアが鮮やかにキーウをとって、ゼレンスキーを拉致するなり殺すなりすれば、アメリカと同じことなので非難されなかったということになるのだろう。TVで発言ができるということは、アメリカ、政府自民党の大きな傘の元で発言しているということなのだろう。裏の事情や理屈の構造を知っている上での解説なのだ。面白かったのは、高橋杉雄の発言で…この人は政府機関の人なのだけど…突如、アメリカ、民主党政権は弱腰過ぎるんですよ。さっさと武器を出さないからこんなことになる。と、顔をしかめて怒っていた。(政府の中枢の仕事に戻ったのでTV出演、戦争に関するコメントは出せませんとTVからは最近引いているが、引かされているじゃないかと僕は思っている。)

 改めて云うけれども、イスラエルのガザ侵攻のときアメリカを支持する発言をしたゼレンスキーや小泉悠や日本政府(国連のイスラエルの侵攻反対決議に棄権票を投じた数少ない国、アメリカはもちろん決議に反対)によって「力による現状変更を許さない」というウクライナを支援する最終ロジックが二枚舌、嘘の正義であることが露呈した。(現在、アメリカはイスラエル全面支持ではない、それはアメリカ国内のユダヤ人たちの中にイスラエルの侵攻に反対するグループがけっこう存在するからだ。大統領選挙の動向によって戦争の動向とそこで使われる理屈が変わってくる)

 ただしウクライナや大国でない国、国連の常任理事国ではない国の、虐げられる人たちの側に立って、「力による現状変更を許さない」と叫び人や、武器をもって戦う人たちのその[許さない]というロジックと、政治家たちが言う[許さない]とはまったく言葉の字面は一緒でも、異なるものだということを認識しなければならないと、胆に銘じた。
 言葉はそのようなものなのだ。嘘もつくし、言訳としか機能しない場合もあるが、その同じ言葉が咽から血の出るような叫びでもあったりする。

 年頭になんとなく了解したのがそんなことだ。あっているかは分からない。間違っていたらまた訂正する思考をしていきたいと思う。なので、二年半に渡って、プーチンの暴挙を支持しているロシア国民、ロシア的なものを小説から体感しようとして、今まで読んだことのないロシア小説をだいぶ読んできたが、今の戦争の根底とそれほど関係がないようにも思うし、それを判断できるものを自分は何ももっていないので、離脱して、違う形のロシア文学読書をしようかと思う。
例えば豊崎由美『時評書評』に紹介されている『ハルムスの世界』ダニイル・ハルムスなどからスタ-トしていきたい。

 だけれども、本能的に、文学的に思うのは、ロシア文学読みのきっかけになった、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の女』やチェーホフの『サハリン』を始めとする小説、戯曲は、魅力を感じ続けているし、そこから派生していったサハリン、大連、武漢を基点にする文学、詩歌は、この2年半の大きな出会いであった。安西冬衛、富澤赤黄男、清岡卓行…戦争と関連しながらモダニズムの成立を読んでいけた。それは読書としてとても愉しかった。その読書の中で見つけた、『韃靼』『大連』は、これからも読み続けるとしてキーワードとして使っていきた。
 今年は、そこに『韃靼』から派生してくる『蝶』。そして樺太の端にある『灯台』も基点として使っていこうと思っている。どんなことになるのか。

 ポーの『灯台』から、『灯台守の話』『灯台へ』をすでに机に積んである。加えて鳥の行方を追う書物旅をしてみたいと思っている。

 読書方法についての変更点は、あまり無いけれども、プロの論客たちの使っている根本がどうも信用ならない…というか組みしたくない。政治も文学も。2024年からスタンスを変えることにした。できるだけプロの読み手から遠ざかるということだ。もちろん自分もプロのふりは絶対にしないようにするし、できれば惚けた観客、読者、愉しみのために見る人というところに居たい。つまり作品に耽る——これに尽きる。

 書くことは、人に何かを訴えるというような偉そうなことではなく、書いているうちに、その最中に湧いてくるものがあるから書くのであって…そして書くのは、一人以上の人が見られるところに置くという前提でないと、そうそう湧いてくるものではないので…noteを利用している。
 その湧いたものは、自分にとって次の読む愉しみになるし、次のモチベーションになるから、それを欲しくて書いている。その愉しみっぷり、もがきっぷり(書くのは苦手なので必然もがくことになる)が、誰かの何かの参考になれば幸いだけれども、特に期待をしているわけでも望んでいる訳でもない。そこが目的ではなく、[耽る]ことが目的なので。

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