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『文学界』2023年5月号 特集12人の″幻想″短篇競作①メランコリア/山尾悠子

 『文学界』は、ちょうど一年前に『幻想の短歌』特集を組んでいる。読んでいろいろ反応する自分に気がついた。短歌が読み取れないのは、まだ良いとして、「幻想」をこなし切れない自分もかなりもどかしい。
 断続的に「幻想」をずっと考えている。短歌も読めるようになるように少しずつトライしている。この歳になって少しずつってなんだよ。間に合わないじゃないかと思うが、遅々としか進まない。
 まだ何にも自分の中で解決していないうちに、12人の″幻想″短篇競作の特集が出来した。
 この特集の巻頭は山尾悠子。当然と云えば当然、今や飛ぶ鳥を自在に操る書き手だ。

 さて読む前に、ひとつの杞憂があって…杞憂というと偉そうで失礼だ…どうなんだろうと判断がつかずに、思考が錯誤しているということだ。
 それは、朝日新聞の『迷宮遊覧飛行』(山尾悠子)の書評に由来する。書評は「血の通う語り口に、ああ山尾悠子は人間だっただとの安堵(あんど)感を得た。」と結ばれていた。
 たしかに『迷宮遊覧飛行』には、自身の過去作に関して成立の由来が、普通の書きっぷりで伝えられていて、それは山尾悠子作品のミステリアスな部分を、解読へ導いてくれた。そうか、そういうことなのかと、幾作を読み返すことになった。そいういうことも含めて、朝日新聞書評は、語り口が人間的だったと云ったのだと思う。非常に納得のいく書評だ。

[山尾悠子の文体の人間性について]。
 で、山尾悠子の[人間性]発揮について、探りをいれると、これは編集者と作家が、意図的にしたことのようだった。だからこの書評はしてやったりで、どうりで朝日新聞の書評に、編集者も作家も嬉しそうだった。そうなのか…。
たしかに、山尾悠子は復活以降、そして『小鳥たち』以降、少々人間味を帯びた書き様をしている。
 最近出版された中川多理『薔薇色の脚』の解説で、川野芽生は、「否、彼女たちに顔があったか?」と、一行で山尾悠子小説世界に[読みの一閃]を入れた——『迷宮遊覧飛行』の人間的自己解説も分かりやすく愉しいが、宙に泛ぶ不可解な綺羅めきのままに読みの一閃、カッティングポイントを鮮やかに描く川野芽生の読みによって、山尾悠子を読む快楽もまたたまらない。その顔のない踊り子の姿や、小鳥たちの顔に関して——実は具体があったのよ、あたしの頭の中にはと書いてしまう、おちゃめな山尾悠子が、しばしば登場して、さらには旧作を人間的山尾悠子が探訪すると云う小説も現われた。厳密な云い方をすると、小説から/言葉で出来ている小説から、ぬらりと外へ作家がでてくることがあるのだ。人間の顔をして。

 中井英夫は、ずっと人外と言い続けてきた。人であってヒトニアラズ。人の領域に外にこそ居場所があるのだと。そこがボクが共感する幻想作家の共和国である。人であるままに人の埒外にあり、その場所は地図にもない処でありながら、具体の番地すらもつような、中井英夫妄想の薔薇園。そこに一瞬でも立てたらと…幾度熱望したか。いや本当のところ一度だけともに立たせてもらったことがあり、それゆえ喪失感は大きい。ボクはどこかで幻想地を希求しながら、現実世界に幻想を感じられる体験を偶然にも幸運にも幾つも積み重ね、そうして言葉でできた幻想を失っていた。
 
 一方、現在には身体を肉体を欠如させて書く幻想小説、幻想文学というものもある。——今の時代、これは必須のことと感じる。で、ボクの持論であるが、山尾悠子の小説には血肉がない。つまり身体がない。故に、復活は必然、今、時代に、山尾の云う若い才能のある女性に喝采をもって迎えられている。
 エッセイは人間の書くものだから、良いとして、小説にまで人間性が侵食しないかと…自分では解読の愉しみを頂きながら、山尾小説が人間的であって良いのか、血の通った文体で山尾小説になるのかという…そういう杞憂である。(本当によけいなお世話である。人間的でも血肉あっても幻想文学は成立する。)
 なので読む前に少々、だいぶどきどきした。
 メランコリア(山尾悠子)は、『海泡石てち——親水性について』からの抄出だった…。短篇的なパートが重層的に複層的に噛みあっていく手法なので、完結していない短篇部分から、作のあれこれを感じることは難しい。結論から云うと単行本になってから愉しみたい。
 と、云う中途半端な感想文になった。出版が心より待たれる。

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