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今月のPassage中川多理 Favorite Journalでのゲット本は___猫町○萩原朔太郎○清岡卓行○岩波文庫/清岡卓行の円形広場○宇佐美斉/蝶と海○清岡卓行

 ここで宇佐美斉という評論家に出会えたのが大きい。
そもそもは、勅使川原三郎がランボーを踊ることにはじまっている。これまで未読のランボーを読もうと詩集を手に入れはじめたが、いつものことながら…訳違いを比べながらランボーを読みはじめた。
 もっとも気を惹かれたのは、詩人ランボーではなくて、詩を辞めた後の、貿易商、武器商人と世界を渡り歩くランボーだ。最期は足を失って故郷を目ざしその途中で…。僕は、詩人にも武器商人もなれなかったが、この渡り歩きに強烈に憧れる。
 ランボーの訳者で気になったのが、宇佐美斉。『中原中也とランボー』を読んで、本の読み方、詩への対し方を教わった。
 
 詩が分からないということが、テキストと読者が出会いを失したか、あるいはいかなる火花をも散らすことなく終わってしまった、ということであるなら、わざわざ注をつけていわば頭脳的に「わからせよう」とすること自体が無意味なのでは~
 たとえ難解であると感じられたにせよ、はじめに詩の一行、あるいはその片言雙句に自分でも説明のつかない引っ掛かりを覚えたり、あるいは全体の醸し出すいわく言いがたい不思議な魅力にとらわれた読者が、そこから独自にその作品、ないしは当該詩人の世界へ導かれる糸口を見いだしてゆくのであれば、注あるいは注釈などは不要のはずではなかろうか。(中原中也とランボー/宇佐美斉)

 この注の代わりに評論という言葉にしても成り立つ。まして詩や小説を[読めていない]評論家による論は、不要であり、むしろ出会いのじゃまになるので排除したほうが良いと、この歳にして思うに至った。作品の内実と出会う。それが第一。そしてその体験は、自分だけの貴重な個性であり、評論のようなものに並べて薄めてしまうことはないのだ。宇佐美斉は自分のアプローチを述べ、言葉によって忠実に作品に寄り添い、読者に作品との邂逅の道を、なんとなく誘導してくれる。自分は、多いに気が楽になって、詩を読むことにした。勅使川原三郎が感動したランボーのある詩に、自分がまったく反応できなくても、それはそれだし、分かろうと踠く必要はないのだ。

 宇佐美斉を読んでいるうちに、ランボーの他に清岡卓行についてアプローチしていることが知れた。清岡卓行についての文は、粋に正確に抜けている。そんなで、以前、読みかじった清岡卓行に還り、そこから安西冬衛、大連、武漢、富澤赤黄男に遡ることになった。山に裏参道を使って登るような気持ちで、とても楽しい。

 『清岡卓行の円形広場』の円形広場は大連の海星広場であり、『蝶と海』の蝶はもちろん安西冬衛の一行詩である。このローリングする読書のなかで、派生もたくさんあって、デスノス『エロティシズム』とか『猫町他十七編』萩原朔太郎/岩波文庫だったりが気にかかって途中下車したりする。くるりくるくる廻りながら、枝葉がひょこっと延びて行ったりするのが、楽しい。『猫町』は、清岡卓行が編集を行なっていて、この文庫は猫とその登場の仕方が素敵な幻想譚であると思っていたが、どうもそれだけのことではなく、むしろ、その底を流れる時代が、昏い故に醸し出す詩情というものであることに気がつかされたのだ。宇佐美斉の解説は、秀逸なものであって、愛にも溢れていてただそれを読んでもらえば、『猫町』の構成編集、解説の妙が手に取るように分かる。
 清岡卓行は、自分の大連経験を何十年も経ったあとに訪問する大連の詳細レポートを通じて、小説にする、そこに自作の詩を入子にする。見取り図のような設計図があって、それが美しく配置されている。猫町の解説と編もそのようにしてある。清岡が、プロ野球の機構に勤務して年間の対戦プログラムを毎年組んでいたから…いや編むのが創作という感覚をもっていたからこその職業で、仕事が先にある訳ではないだろう。

 『猫町』というタイトルで纏まっているから、萩原朔太郎の猫の小説かと思いきや…そうでもあるのだが…この文庫は、萩原朔太郎の戦中のアンソロジーであり、その時代と社会を詩的に通底させているものを見事に再構築している。現在進行形の戦争と合わせて、満洲の、当時の、戦時下の、詩人たちが検閲とパージを受けながら…富澤赤黄男も、戦争に反対するとかではなく、感じ表現しているものに対して、表現の規制がかかってくるという中での創作についての感覚を知りたいのだ。(だいたい俳句などに対する軍の検閲はほんとにセンスがない。というか句を読めていない。闇雲に投獄する。)

 個人的な感想だが、安西冬衛は大連に居るときに、山口誓子は樺太に居るときに最も優れた詩や句を作ったし、富澤赤黄男はまさに武漢の前線で兵站を担当しながら、そこで俳句を読んだ。戦争時の詩、短歌、俳句の独特に心を惹かれる表現は(駄目な作家たちも多いが…)モダニズムの創始の熱であったり、感情よりもオブジェに向かう傾向があったりで、自分にとってもこの上のない表現のように思える。
 オブジェ派の自分は、すっと身体から表現に入り、下手をすると、満洲の夕陽の大陸に立っていたりする。(それが現実の風景ではないということを知っていてすら…)清岡卓行とか宇佐美斉は、先人たちモダニズムの作家たちの、底にながれる戦争という時代を、読み取り感じ取り、解説している。解説というより愛でているのか…も。
 解説に深読み、個人読みはいらない。ただそこにあるかもしれないものを見て伝えれば良いのだ。そうすれば後塵、戦争を知りえない、しかし同じようにウクライナで塹壕戦が行なわれている現在の…両者とも届き得ない、知り得ないことではあるが…戦時下の塹壕の中から見る風景を少しだけ感じることができるのだ。

 少しは零ではない。少しでも世界と共振する能力をもたないと、大連で生まれた詩、樺太で生まれた詩、武漢の戦地で書かれた句を、読み、感じることができないのだ。戦争や時代を知り受けたいわけではなく、その時代に生まれた、詩や句の良さを感じたい、その底の潮流を身体に装置として組み込みたいということなのだ。

 しばらくこの時代、この方面につきあっていきた。本を通じて。

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