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ミテ第167号 追悼唐十郎 号


 新宿梁山泊の見はじめたのは、第5回公演の「千年の孤独」からだった。誘われてでかけたのだが、すぐさまに虜になった。(『千年の孤独』は戯曲を出版してもいる)多くの個性派の役者の中に、近藤結宥花はいた。女学生のような、それでいてちょっと大人なような…新宿梁山泊の役者の個性とはちょっと違った方見ている個性だったが、光りを放っていた。その近藤結宥花が、追悼号に寄稿している。唐十郎ともだいぶ縁深い関係だったのだと、はじめて知った。
 酔っぱらって肩を組んで歩いたとか、いろいろな言葉を書けてもらったとか…唐十郎に立ち向かうことで演劇に向かっていく様が描かれている。記事を読んで少し吃驚した。僕は寺山修司や土方巽に遊んでもらっていたが、自分の性格もあってか、酒を飲まないせいもあってか、[肩を組む]ということに、へぇぇー。って思った。教える人でもあり、同士でもあるという姿勢は、寺山さんや土方さんにはない。唐十郎は肉体なんだな、言葉なんだなとつくづく思った。それはテントと云う劇場だけでなく、しばい終わった後の稽古場や飲みで、発揮しつづけているんだ…と。
 
 『ミて』の新高さんや樋口さんに、『特権的肉体論』が…タイトルからイメージするような特権、肉体、という強かったり特殊だったりということとは違う、中也の、弱い、病弱な肉体をベースにしていると聞いて、飛び上がるほど驚いて、『特権的肉体論』を読んだ。土方巽の衰弱体とかも似ているのかな…とかいろいろ思って見たが、字面以上には理解はできなかった。(唐十郎の書いたものは理解するものではなく、体験、実行するものだから、しかたがないんだけれども…)

 『ミて』の唐十郎追悼号には、唐十郎の明治大学の初講義が載っている。唐十郎の語りは、僕にしたら煙にまいたような話で…そういえば土方巽もそういうところがあったが、土方さんのはちょっとまた別物で、実は背後に明解なロジックが通っていて、たまたまそれを披露してもらったこともあった…対談やインタビューはあちこちで読めるのだが、どうにも通じが悪いものになっていた。僕には。
 だけれどもこの講義録は、つるつると身体に入ってきて、あ、なるほどな、という素晴らしいものだった。唐十郎が自分をきちんと解説しようとする意志のある喋りは珍しいし、たぶん原稿を起した人の腕がもの凄く良いのだと思う。唐十郎の言葉を理解して起している。
 
 そして樋口良澄と新井高子の5月4日から5日にかけてのドキュメントもまた、秀逸で、…僕は人形の展示の作業をしていて、駆けつけられなかったが…その風景がくっきりと伝わってくる。自分を書かず唐十郎を書いている。なかなかできないことだ。凄いな。その中で、二人はやなり『特権的肉体論』にも肉薄していて、それがまた僕の頭を大いに刺激した。

 田村泰二郎の『特権的肉体論』も甲賀元嘉の唐十郎と彼女をめぐって決闘した話し、そのあいだに手紙や詩が交わされている、その言葉も興味深くまた、心に響いた。
 藤井由紀は、戯曲ごとに唐十郎にかけてもらった言葉を大切そうに手書いた。

 ああ、そうなんだ。
唐十郎の『特権的肉体論』は、唐の身振り手振り、言葉ぶりをもらって受けとめないと、肉体で消化しないと読めないんだと——この特集を読んで——分かった。
 しかも唐十郎はあてがき、するように、一人ずつ相手にあわせて、振りを変えている。
だからこの特集でもほとんどの人が『特権的肉体論』に言及しているが、そして唐さんの言葉や仕草を含めて伝えてくれているけれど、それは、書く人と唐十郎のあいだの言葉と肉体によって、それぞれに成立しているのだ。それぞれだからこそ、舞台で結集するともの凄い力をもつ。
 集合体でもない、一対一でもない、その良いところがまとまって力を出す。唐十郎がタクトを振った瞬間、大爆発するのだ。あてがきも、稽古最初の唐十郎読みも、他の劇団でやるようなものだと勝手に思っていたが(見たことないので、想像がつかなかった。この特集はそれを垣間見せてくれた)、圧倒的に違う形で存在しているのだ。おそらく…。

 この特集で、唐十郎の演劇や、作品や、『特権的肉体論』に近づくのが、僕には不可能に近いということを切実に認識したが…それは大きな意味では唐十郎の存在を理解することになった。いやぁ、『ミて』の唐十郎特集は、僕の目の堅く瞑っていた鱗をおとしてくれた。ありがとう。

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