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フラッシュメモリー2021 『唐十郎のせりふ』新井高子

じつは唐十郎は、『泥人魚』(2003年)の手前頃から状況劇場時代とは異なる鉱脈をしっかりと当て、掘り進めていた。
(『唐十郎のせりふ』新井高子前書きより)

そうなのか。そうだったのか…
僕はずっと寺山修司の側にいて、時おり状況劇場をぽつぽつとしか見に行ったなかった身としては…『犬狼都市』好きだった…もちろん蜷川幸雄に書き下ろした『下谷万年町』とか石橋蓮司の第七病棟に書き下ろした『ビニールの城』とか…いやもっともっと見ているな…でも。

舞台は見ていても見えないことがある。見えないものがある。本を読んでも読めていないことがあるのと同じ様に。それを救ってくれるのは言葉だ。新井高子のような言葉で。
テントの中でじっと息を凝らし、唐十郎の言葉がある役者によって、輝き、舞台を転換する瞬間を体験し、戯曲を読み、唐十郎の言葉を聞き、演出を体感して、——そして書いた言葉、書いた本。言葉の本。詩についての本。詩がどう現実という場で輝くのかと、追求してきた人の本。[せりふ]という言葉が生きる瞬間を捉えようとした、言葉の旅日記が、まとめられている。
その本の言葉は僕を覚醒させる。

唐組になってからの戯曲、演出…それは状況劇場時代と異なるよ…その具体的指摘が書かれている「唐十郎のせりふ」。肉体の退行、言葉の希薄化…状況劇場と比べてのなんとなくの、分かったつもりの印象が、唐組の唐十郎に踏み込ませることを躊躇させていることに気がついていなかった。僕。

そして自分が、根本から変更しなくてはならないことはこれだけではなくて…
たとえば、新井高子が引用する唐十郎のこんな言葉——
「昔、中原中也という詩人がいた。この人の詩と行状と死にざまを調べながら、私は、こりゃ詩人じゃない、もう一つ格が上の、病者(びょうじゃ)だ、と思ったことがある。(中略)この病者を思う度に、私はこう考える──痛みとは肉体のことだと。
麿赤児、四谷シモン、大久保鷹など、怪優と評される状況劇場役者たちの大胆不敵さを表す語として広く流布したが…中原中也の暗いからだを唐が慮るところから出発している。(新井高子)
たしかに『特権的肉体論』を取り寄せ読んでみれば、引用その通り文脈も書かれていて、それは土方巽が精神病者の姿を録ったり室伏鴻が木乃伊になったり、寺山修司が立ったままの屍体と行ったこととまたどこかで連帯していて、時代が去った後に、思えば、肉体と言葉ということは、もっと重層に検討してもよいことなのだと思う。
当時、雰囲気に酔っていた自分は、寺山修司の論考や戯曲は読んでも、土方巽の論を読んでも…その向こう側にいた(じつは向こう側ではなかった)『特権的肉体論』を精読してはいなかった。
舞台において言葉は全てではないが、唐十郎の場合、戯曲と役者の肉体と演出と…詩的な言葉とト書きの妄想/幻想性と…言葉によって、言葉を受けとめることで、体感できるものの深さと量が圧倒的に増えるということを、新井高子の本は知らせてくれる。教えてくれると書きたいが、新井高子にそういう姿勢はないから、そうは書かない。読んで自分がアプローチすれば良いのだ。唐十郎に、唐十郎の演劇に、戯曲に…。

まだまだ自分にとって未知のことば書かれていて、この本、しばらく手元から離せそうにない。

#新井高子  #唐十郎 #唐十郎のせりふ 


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