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人を見て、自分を知ること

母や姉や、友人女性について、ここ最近思う事があって考えていた。
この3人はどこか似ている。電話やメールでやり取りをすると、どんなに穏やかに連絡を取り合ったとしても、その後、私の心にもやっとしたシコリが生じる。ここ2ヶ月程、はっきりとそれを感じる。

彼女らは彼女らなりに日々、悩みながら暮らしている。だけど、悩みながら解決に向かおうとするより、悩みに悩みながら悩みと共に暮らしているように見えてしまう。
小さな悩みは解決しても、すぐに同じようなさな小さな悩みが目の前に見える。それらの小さな悩みの出所である太い幹に向かおうとせず、ましてやその根っこは到底意識の外側で、存在すらしないような…

3人が、それぞれの透明な膜に覆われてそこを抜け出せず、膜の中をぐるぐるとしているように見えるのは、共通して、全幅の依存対象を探し続けているからだと思う。本人がはっきりと意識してなくても、それを探しているように感じてならない。
私の代わりに私を背負ってくれる人…を。
誰かがそうやって救ってくれると、いつも信じ願っている。その証に、そのような可能性を持ってそうな対象が現れたら、自分の悩みなど一瞬で忘れてキラキラと目を輝かせ、その相手へ向けて自分のエネルギーのほとんどを消費する。これこそが私が望んでいるものだ、と言わんばかりに、その対象を強く求める。


悩みを本当に解決し前に進めるときは、自分自身が自分の足で立って自分の心の深くに寄り添う勇気を持った時。そして、エゴの削ぎ落ちた素の自分の直感の存在を知った時だ。と、今の私は思う。

悩みの幹にしっかりと触れ、その根っこを想像し掘り起こしながら、知りたいと思い続ける勇気。
幹にも根にもふれようとしない根本原因は、自分自身が自分に真剣に寄り添うことを拒んでいる、或いは、恐れていることだ。

これを書きながら、母や姉や友人を想いながら、自分のこれまでの生き方を違った視点から改めて知る。
朽ちるべき木々は掘って倒せば、弱っていた木は潤いを取り戻し、新しい芽も出てくる。私という1つの土地が循環良く、美しくのびのび茂るように整えていきたい。
自分の心や身体を豊かに耕していくことをそうぞうする。

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