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ヴェダトムリチの物語


「恐怖、苦しみ、死、戦争」
コソボ代表ストライカー、ヴェダト・ムリチ(ムリキ)の少年時代は酷く辛いものであった。

彼は止まることなくゴールを決め続けているが、決して順風満帆な人生ではなかった少年時代。

コソボ人FWは、トッテナム(現在はラツィオ)などから関心を寄せられているが、彼の少年時代の経験から、ここまでのレベルに到達することはほとんど不可能だと思われていた。彼には何もなかったのだ。


コソボのプリズレンで生まれた25歳の彼は幼い頃、コソボ戦争とその余波の犠牲となった。

2016年当時のGiresunsporのストライカーは、経験したことを次のように説明した。


「7歳の時に父親を亡くしたんだ。 当時、私たちは戦争のためにアルバニアへ行った。 兵士たちが私たちを探していたので、どうしようもなかった。(私たちは兵士たちに)コソボでも発見されたが、幸いにもなんとか生き延びることができた。 彼らは私たちに2時間以内に家を出ないと爆破すると言ったんだ。」
「私たちは2日間、地下室の瓶の上で寝ていた。 
そして、私たちが食べていたのは、玉ねぎとパンだけだった。」

ムリチは6歳の時に戦争が原因で母親と国を離れ、難民となった。

「私たちは戦争のために他の場所へ移住しなければならなかった。 私たちには(家族、親戚等全て含め)55人いて、みんな同じ部屋に住んでいたのさ。 その頃の私は子どもだったので母親から食べ物を貰いたかったけど、私たちが持っていたのは玉ねぎとパンだけでそれを1日3回食べていた。 それに加えて、55人みんなが飲む牛乳は2リットルだけしかなかった。 時々、家族はお茶を飲み、私たちに砂糖をくれたりしていた。 それが2年近く続いたのさ。」

自分の思いを語るムリチは、子どもたちに必要なものを一切与える事が出来ずいつも泣いていた母親の顔を思い出した。


自分を変えたい、家族を助けたいという思いから、ムリチはサッカーを始めた。2005年、コソボのFK Liriaでキャリアをスタートさせ5年間を過ごした後トップチームに昇格。その後、アルバニアのクラブKF Deutaへ、2014年にはトルコ2部のGiresunsporへ移籍した。2018年にCaykur Rizesporに加入すると、主力選手としての地位を確立し、クラブのスーパーリーグ昇格に貢献した。17ゴールを記録したムリチは、少年時代から応援していたフェネルバフチェへの移籍を果たした。彼の祖父が大のフェネルバフチェファンで、その祖父の影響で彼もファンになった。応援し続けたクラブに加入が決まった時は言葉で表せないほど嬉しかったようだ。

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当時チームメイトだったマックス・クルーゼはこう語る。

「彼は野心があり、クレイジーで、ハングリー精神も持っている。 レヴァンドフスキに似ているよ。後2〜3年でバイエルンミュンヘンのレベルに到達できると思っている。」


「彼はトルコ最高のストライカーだ」

数年前、トルコは彼を帰化させる事を望んだが、彼はこう言った。

「私の夢はコソボでプレーする事だ。」

その夢は叶いコソボ代表となり、ストライカーとして欠かせない選手にまで上り詰めた。


コソボ代表監督シャランデスは彼を「戦闘機」だと説明する。

「彼は全ての試合をまるで最後かのようにプレーする」

子どもの頃見た白黒の記憶を忘れる事はない。
ムリチは死を間近に見ている。
ある朝、セルビアの兵士たちが彼と彼の家族が家に閉じ込められているのを発見したが、銃を使用する事はなく免れた。いつ殺されてもおかしくなかった。


彼の父親は対戦中に心臓発作で亡くなった。
家族と、父親の事を考え彼は息子に父親と同じ名前を付けたのだ。
子どもの頃経験した残酷な記憶は消えない。
彼が、彼の母親が、皆が流した涙も忘れない。
そして彼は父親の、家族の、故郷の思いを背負いイタリアのラツィオへ。


今回の涙は玉ねぎではない。




(おわり)

ムリチの取説も書いてありますのでぜひ👇