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Jaco Pastrius 思想の乖離🎸

Whether Report での活動
Trio of Doom のレコーディング・セッション
ハヴァナ・ジャム出演
Joni Mitchel のアルバム・プロデュース
コンサート・ツアーへの参加......

1981年
キャリアのピークを迎えつつあったジャコ
あったがさらに高みを目指し、これまで温めて
きた自らのビックバンドを結成する決意を固めた。

親子の様に仲の良かったジョー・ザヴイヌル
との袂を分かち合ったのは月並みな言葉では
あるが、はっきり言って音楽的方向性の違いだ。
これはお互いのエゴのぶつかり合いではあるものの、
つまらない人間関係のもつれや金銭トラブルによる
脱退よりも至極健全であり当然の成り行きであったと
言えるであろう。

栄光を極めた Whether Report 時代は
ジャコにとって至福の時であると同時に
一音楽家として抱えきれない
プレッシャーとの闘いでもあったに違いない。

このプレッシャーを跳ね除けるべく
ジャコは Whether Report 在籍時に2作目の
ソロアルバム 「Word of Mouth」 を発表する。

「自分の音楽を突き詰めると同時に」
 世のニーズにも応えること」

ジャコにとってはこれがプレッシャーから
逃れる唯一の方法であったのであろう。
そして、それを実現するにはジャコ自身が考える
最高のパフォーマンスを世のオーディエンスに
提供することに他ならない。

しかし、
スイングジャーナル誌主催の1981年度(第15回)
のジャズ・ディスク大賞において最高賞である
金賞を受賞はするもののセールス的には今一つ
振るわなかった。

ジャコが作編曲面を含め、音楽監督として持てる
力を総動員しているにもかかわらずだ。

要するに、ジャコは自分の最高の手札を切ったものの
世のニーズに応えることができなかったという事になる。

天才の頭の中を世の凡人たちが理解できる
わけもなく自分の考える最高のパフォーマンスが
裏目に出たというわけだ。
結果として、そこには思想の乖離があった。

1982年
そこに気付いたジャコは、
「コレこそが世のニーズに応えるべきもの」
と自らビックバンドの活動に全精力を注ぐこと
にした。
ビックバンドでの活動は大成功をおさめ来日公演の
模様はライブ・アルバム「Twins I & II」としても
発表された。

順風満帆に事が進んでいるようにみえたが
しかし、この時
既にジャコの心と身体はドラッグとアルコールにより完全に蝕まれていた。
さらには、
ビックバンドを維持運営していくにはとにかく金がかかり、湯水の如く手持ちの金は消えていった。
ジャコが金食い虫であるビックバンドの運営に苦しみ金銭ぐりにかなり苦労していたことは手に取るようにわかる。
この点においてもジャコは音楽的な事以外で
大きなプレッシャーと闘っており、その闘いには
すでに敗北していたのかもしれない。

音楽家としての能力とメンタルの強さは決して
比例するものではなく、むしろ天才が故の
精神的な偏りによって知らず知らずの内に
自分自身の身も心も切売りしボロボロになって
しまっていた。

そんな中、小編成(Sextet)ではあるがJaco Pastorius Band
としてライブ活動は行なっており来日コンサートもはたしており
同じメンバーでモントリオールでのジャズ・フェスティバルへも出演していておりその時の模様が映像作品として発表されている。

大編成のビックバンドではコンダクターとしての
役割も担うことになる。
なのでどうしてもベースプレイに集中しきれずに
プレイが散漫になりがちであったが、
小編成の強みを最大限に活かした
ジャコらしい伸び伸びとしたリラックスしたプレイ
を観ることができる。

ボクはこの時のジャコのプレイが一番好きだ。

「ライブ・イン・モントリオール」

これが本当の意味で”音楽家”ジャコ・パストリアスの最後の姿であったといっても過言ではないだろう。

その後のお気楽セッション的な作品は
ジャコが”音楽家”として本当に残したかった
作品であるとは到底思えない。

高速で走り抜けた十数年の音楽家人生
しかもそのピークはほんの数年....

その短期間で味わった栄光と挫折は凡人には
計り知れない。
ジャコにとってはベーシストの立ち位置を
塗り替えるには十分な期間だったというのだろうか......

ジャコが音楽界に残した功績は計り知れないし
今、現在も影響を与え続けている
そして、これからも......

ジャコよ永遠に......

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