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捨松という女性の真の姿

ひ孫にあたる久野明子氏が 捨松の手紙をもとに くわしく人生を著しておられます。

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山川咲 のちに山川捨松 結婚して大山捨松。大河ドラマの「八重の桜」では 帰国後の捨松は水原希子さんが演じていました。スタイリッシュな女性で 洋装が似合い 英語で西洋人とわたりあう役。当時そんな女性がいたのかと驚いたものです。

捨松は 山川家の末っ子。ドラマでは 捨松の一番上の兄を玉山鉄二さんが演じていました。苦労の上に 家族や一族を心配する長兄でした。
この山川家は 会津の悲劇の歴史の中 きょうだい みなとても優秀で
維新後の政府の役人 帝大の先生 師範の女教師 皇后つきの女官などに
ついておられます。

この家が 幼い捨松を函館のフランス人に預けたり 国費留学のメンバーに加えるなど 負けた会津陣だったのに 中央との関係はあったことに驚きます。またその優秀な家系にも。

明治初頭 横浜から 幼い少女たちは 振袖を着て 行く手もわからない旅に家族たちと離れて 船に乗せられました。
きっと家族から 自分たちの使命をこんこんと言って聞かせられていたのでしょう。今の留学へ送り出すのとはわけがちがいます。母親たちは 心の底で永遠の別れも覚悟していたにちがいありません。
世間では 子供を米国へ送り出す家庭へ 相当な批判の声があったようです。

長い船旅で米国到着後は 西海岸から東側の古い都市まで歓迎のイベントやら 物珍しさから近づく記者や 好奇の視線をうけ続けたそうです。

牧師のベーコン家で生活が始まります。しばらくは一行の少女たちが一緒に
暮らしていたのですが やがてホームステイ先は分かれていきます。
捨松と梅子と繁子という3名の少女よりも年長の 10代初めの2名は 
生活の変化と思春期とが重なり 体調を壊し しばらくしてリタイアで
帰国してしまいました。米国に残ったのは3名。

米国での小学校や女学校のくらしは 映画「若草物語」などを想像しながら
読んでいました。運動神経がよく背も高い捨松は スケートもじょうずで
パーティなどでも人気だったようです。
大学卒業までのティーンライフ。まるでアメリカ映画同様な印象でした。
ホームステイ先の娘アリスとの語らいや いろいろな遊びも 中流家庭で教えてもらう礼儀や精神なども 19世紀の良きアメリカという感じです。

捨松は長兄に言われて 日本語も少し使う機会を作り 日本の政経状況を
手紙にそえられた新聞で読むこともしていたようです。長兄の配慮にこたえる妹も大したものです。

彼女たちは 武家の子供だからか 受けた恩に対して とても強い思いがあり 帰国したら 国の為に恩返しをしなくては という強い意思や建前を
持ち続けていました。またアリスとも10代らしく理想を語りあい 約束もしていました。

しかし 10年以上の留学中に 日本の政治体制は変わってしまい
女性に高度な教育をという理想が 政府側から消えてしまっていたのです。
日清・日露戦争の時期、富国強兵、その為に女性は子供をたくさん産めばよいというほうへ。
したがって 帰国してきた3名の女性、英語が堪能で 米国の進んだ総合的な教育を受けてきた人を生かす職場は ありませんでした。

帰国後 彼女たちは すぐにでもその力を生かして 国に恩返しをしたいと
あせっていたのです。しかし待てど暮らせど 仕事の依頼が入ってきません。アメリカになじんで力を発揮していたから 日本語の読み書きを忘れて
しまっていたのです。話すのも英語の方が楽なくらいに。

そんな人が教師として 日本で日本人を教えるには 力不足という判断をされ 働く場所をお世話してもらえませんでした。
しかも 身分がそこそこ高い家の女性は 独身だとまったく行動の自由が
なく 勝手に外出もできないという社会でした。外出するなら人力車で。
客人と家で会う時も 親があう。18~20歳で独身というだけでも もう行き遅れとみなされるほどだったようです。

そういう事態を脱却したいために とても悩みつづけた捨松は 
陸軍大尉の後妻になって 政府上役の妻として活動する道を選びました。
結婚して初めて自分の意思で行動が認められるという中で 
支援活動や財政面をどんどん支えていきます。慈善事業やバザー、
看護事業や 日露戦争戦死者家庭の慰問や保護 梅子の女子教育に。

こんな行動をできる 身分が上の女性たちって たぶんいなかったでしょう。アメリカの学校で自分たちができることを行動する、という経験を積んできた彼女だからこそ 発想がうまれ それを実現できたのでしょう。

また日本の状態を憂い 米国の出版へ投稿したり 大学の同窓会や
教会などに支援を訴えました。
すると アメリカの人って 太っ腹。慈善活動として 寄付金を集めて 
日本へ大金を送金してくれたのです。宗教上 寄付や慈善というのは そんなにも普通のことなのでしょうか。

晩年 捨松は 梅子の学校を助けるため 体調不良をおして出かけて
スペイン風邪に感染し ワクチンを打った直後に亡くなってしまいました。
昨今のコロナのご時世にも身近に感じられる そんな人生でした。

彼女のことを 当時の世間は 「国費つかったのに それをいかさず
さっさと結婚した人」、とか 後「妻に入って 先妻の娘に冷たくして
肺病に追い込んだとかのスキャンダルめいた小説のモデル」と言われて
しまったりとか。のちにそれを書いた作家は 謝罪記事を載せたらしいですが 彼女の名誉回復には あまりつながっていないかもしれません。
あることないこと書いて 有名人をおとしめる風潮は 昔も今も変わっていないのですね。
そして 勝手に書かれる有名人のほうは 弁解の場もなく耐えてしのぶしかないのでしょうか。

さて アメリカのすごいところは 外国への寄付だけではありませんでした。後世から見て歴史的価値のある物を すでにその時点で しっかり保存につとめていたことです。大学同窓会の会館や美術館などに 捨松や梅子の活動ぶりや 彼女たちが送った手紙や資料やカード、記念の品々などを 
きっちり保存して 昭和までちゃんと残してくれていたのです。
さらに 戦争の混乱や歴史の風化があっても 関係者たちの子孫までが
それらを管理したり 心の片隅にでも残して 次世代に語りつないできていたのです。
 
それらは 後年 訪ねていった 捨松のひ孫 久野明子氏にすべて渡せるくらいにまとめてあったのです。捨松のことを書いた久野氏は 捨松の手紙があることを まず米国人から知らせてもらっていたのでした。

また もう1つ アメリカのすごさがあります。
外国から来た子供に 自分の子同様の教養を身に着けさせ 家庭の温かみを経験させたことです。
捨松や梅子を世話した2組の夫妻は 宗教的な慈善意識や 国費からの
報酬もあったこともあるけれど 心の奥底にアジア人への差別意識は
なかったのでしょうか。
少なくとも彼女たちは そういうことを感じたかどうか 何も語って
いないし 母代わりの女性たちを慕い続けていた所から見ても とても良識の高い夫妻だったようです。

その家庭で育ったアリスもまた 未婚を貫いたけれども 日本から戻る際に 梅子の姪っ子を養女にして連れ帰っています。そして捨松たちのように 米国で教育をうけさせました。後年 その子も その後 日本に戻り 津田塾大学を受けついでいきました。

さらに 米国にいる間は もう1人の日本女性も受け入れて教育を応援しています。それが 一柳満喜子。玉岡かおる氏の著作「負けんとき」の主人公でした。華族に生まれて そこに安住しきれず やがて 近江八幡などで洋館の建築やメンソレータムの会社を作ったヴォーリズと結婚した女性。
ちなみに 朝ドラの「あさが来た」のモデル広岡浅子の娘が結婚したのは
一柳満喜子の兄です。
あの頃の あの層にいた人物たちは つながりあっていたのですね。
共に理想に燃えて 教育界などに尽力したのは アリスやその周辺の影響なのかもしれません。

明治日本で 女性たちが思う存分行動できず さまざまな問題にぶちあたっていても あきらめなかった。なんとか事態や社会を改善しようと努力していった人たちは 米国での人権意識や民主主義を なまで見聞きしてきた素養をもとに 努力していたのですね。

現在 当たり前のように権利やさまざまな平等な機会を謳歌(しきれているかは疑問ですが)できる態勢にあるのも 教育制度や女性の立場をよくしようとした先人たちの遺産ゆえ だということを感じさせられました。


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