加湿器と暮らす

悲しいことに私は人間なので、冬眠をすることができない。
朝目が覚めて、しばらく虚空を見ていると、部屋の隅から控えめな音が聞こえてくる。おやすみモードの加湿器の音だ。
それを聞いていると、ああ生きているな、と思う。加湿器が、ではなく、私が。

年末年始に帰省したとき、「500円で買った加湿器の水が一瞬で無くなる」という話を親にしたら、それなりに良い加湿器を贈られてしまった。ねだったつもりではなかったし、働いている身で親にお金を出させることに抵抗があったので、その話をしたことを少しだけ後悔した。

私が就職を機に実家を出たのは、去年の春のことだった。
私が家を出れば家計の負担が減ると思ったのに、親は何かと私にお金を出そうとしてくれる。もちろん有難いことだとは思うけれど、身の振り方がよくわからなくなってしまう。私に使っていたお金を両親や妹の方に回してほしいなと思うのだけれど、親心としてはそうはいかないらしい。
愛されて育った自覚があるので、その親心もなんとなく理解できてしまう。甘え方や気の遣い方を考えないとなと、届いた段ボール箱を見ながら思った。

タンクに水を入れてボタンを押せば、やさしい機械音と共に加湿が始まる。それを見つめながら、なんだか生き物みたいだな、とぼんやり思う。
加湿器だけではない。洗濯機が回る音も、電気ポットがお湯を沸かす音も、電子レンジが食べ物を温める音も、ぜんぶ生き物みたいに思える。
だけどそれはあくまで、生き物「みたい」に過ぎない。家電は生き物ではない。私と一緒に暮らしてくれる、私のための機械たちだ。

後ろめたくなるほどに、一人暮らしは気が楽だった。「寂しいと思わない」ということ自体を寂しいと感じるほどに、一人で暮らすことは寂しくなかった。

家族のことがとても好きだ。とても好きだからこそ、気を遣いたくなる。気を遣わずにはいられなくなる。嫌いになりたくなくて、負担になりたくなくて、目を瞑ったり背伸びをしたりする。好きな人たちが望んでくれるのならば、望まれた自分でありたいと思う。

一人で暮らし始めて、自分は自分のためだけの場所がないと生きていけないのだと、思い知らされてしまった。 どうしようもなく閉鎖的で内向的な気質だなと思うけれど、そういう気質だからこそ、そんな自分のことは嫌いではなかった。
そもそもそれは私にとって好き嫌いの対象ではなく、ただ単に「仕方のないこと」でしかなかった。受け入れることとと諦めることの違いは未だにわからないけれど、私がそういう人間であることはもうどうしようもない。
ひとりぼっちの狭い部屋の中で、天気予報を見ながら洗濯をする日を決めたり、ホットケーキをたくさん焼いて冷凍したり、音を立てて動く家電を眺めたりする生活が、自分には合っているのだ。

加湿器に水を注いで、心地よいその音を聞きながら、眠って起きて、生活をする。
人間とは暮らせなくても、加湿器となら暮らしていける。家族ではなく生き物でもない、どこか可愛らしいその白い機械と共に、はじめての一人の冬が過ぎてゆく。

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