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【エヴァ考察】 シン・エヴァの役目とはエヴァが背負う「90年代という時代」の精算ではないか ※ネタバレあり

エヴァンゲリオン新劇場版の初日上映を観終わってから、最初頭の中での整理がつかなかったので上手く言語化できずにいた

だが時間が経つごとに庵野監督がやりたかった事が何となくだが分かってきたような気がするので、綴っておきたいと思う

ここから先はネタバレになるので、まだ観てない人はブラウザバックしてほしい 


感想・ネタバレ


映画そのものの感想としては「上手いこと風呂敷畳めたんじゃないの?」という印象。
そして何よりも「正真正銘エヴァは終わった」ということはとても大きい

劇場版Qは序と破では別の世界線であるという意見もあったが、結果的には全てのエピソードは繋がっていた

またQのあれほどまでに不可解な内容で、かつQで大きく拡げた風呂敷や数多くの伏線をシンエヴァンゲリオンで全て繋げることができたことは素直にすごいと思った

序盤12分は既に公開されているため省略するが、パリのネルフ支部をミサト率いるヴンダーが攻略し、Qからの続きのシーンとしてシンジ、アスカ、レイ(仮)はニア・サードインパクトから生き残った、トウジとケンスケのいる集落へ到着する

そしてトウジには妻と赤ん坊がおり父親との4人生活をしていたのだが、シンジは心を閉じており、ケンスケとトウジに再会できたこと、貴重な温かい食事を振る舞われたことに対して俯いたまま返事せず、食べようともしなかった

シンジはアスカのDSSチョーカーを見ると吐くような状態で、シンジは結果的にニア・サードインパクトを起こした自らに対しても優しく接する集落の人々に対し、上手く心を開くことができなかった

集落の人々から孤立しようとするシンジに対し、レイ(仮)は毎日固形食をシンジのいるネルフ基地跡地まで持っていき、心の支えになろうとする

そんなシンジは周囲からの支えもあり少しづつ心を開いていくが、レイ(仮)は置き手紙を残しシンジとネルフ跡地まで行き、シンジが当初受け取ることを拒否したウォークマンを渡した後、消滅しL.C.L化する

ゲンドウはシンジに対し喪失を味わせるためにレイを用意していたのである

シンジはミサトと加持の間に生まれた子に出会った後ヴィレ(ミサト率いる反NERV組織)に戻ることを希望するが、その直後アスカはシンジを気絶させ、物語はヴィレが搭乗するAAAヴンダーへと繋がる

シンジはAAAヴンダーの中で隔離された後、ヴィレは南極へ移動したネルフ本部へ襲撃することを画策

ここからが分かりにくいのだが、ヴィレのエヴァ2号機改、8号機はネルフのこれまでのエヴァと、ヴィレ側ヴンダーはネルフ側のヴンダーと壮絶なバトル

その後ヴィレは負けゲンドウは13号機により初号機を強奪、フォースインパクトを起こそうとするが、その際目を撃たれた際にゲンドウは人間の垣根を超えていたことを知られる

シンジはヴィレからのヘイトを受けながらもミサトに庇われ初号機に搭乗、ゲンドウとエヴァを使い親子喧嘩
この際意味不明なバトル演出が多く、ここはあとで述べることとする

その後ゲンドウは自らの心の内を吐露し、シンジが第三の槍を手にしたことで改心、シンジは「人と人の垣根のない精神のみの世界」よりも、「人と人が互いに分かれている、エヴァのいなくて良い世界」を選び、最後はユイが背中を押す

場面は変わり、大人になったシンジとマリが現実世界をバックにいちゃつき、終劇の文字で幕を閉じる

ここから先は、私の主観、感想になる

「90年代」という時代

そもそも、新世紀エヴァンゲリオンの原案が作成されたのは1993年、アニメが放送されていたのは1995年でありエヴァは90年代真っ只中に生まれた、エポックメイキングな作品と言えるだろう

当時日本はバブル崩壊後、暗い雰囲気が世相を覆っていたことは当時生まれていなかった筆者にとっても想像には難くない

その中で日本は、日本人は新たな価値観へとシフトしようとしていた
「無関心」「無干渉」「個人主義」といったものである

エヴァンゲリオンが放送されていたのは深夜帯で、テレビはもう一家に一台ではなく一部屋に一台あるものだった

自分の部屋を持ち、テレビがあった当時の若者はエヴァの世界観にどんどんとのめり込んでいったことは想像に難くない

これまでの80年代のアニメにありがちな
「屈託のない溌溂とした主人公が自らのビジョンを叶えるため努力する」というテンプレート的アニメとは一線を画したエヴァの主人公、世界観はアニメの歴史を大きく変えるものだった

劇場版エヴァンゲリオンとして

時は流れ、2007年に劇場版エヴァンゲリヲン 序が表現したのは「笑えばいいと思うよ」というセリフに代表される、キャラクターの感情の激しい揺れだった
感情主義、言うなれば人間中心主義がテーマにあったのではないだろうか

そしてラストとなる今回の作品では人間としての営みの重要性、人と人との繋がりの重要性を示唆しているのではないだろうかと思う

序盤の集落シーンで目立ったのは、妊娠している猫や妊婦、子育てをする妊婦などである
お腹が大きくなっていき、産まれ、育ち、誰かの為に汗を流し、それを次世代に繋いでいく

愛の重要性にしても、ゲンドウは最期ユイと共に槍で貫かれることを望んだ
旧劇と大きく違う点で、ゲンドウはシンジとエヴァで親子喧嘩をした後、自らの心の内を吐露している点にある

小さい時から1人でいたから、孤独に苛まれることもなかった
クラスメートの家に行き、他人と交流するのが苦手だった
ウォークマンで耳を音楽で包み、自らの世界と他者の世界に壁を置いていた
知識を自らの内に溜め込み、調律されたピアノを弾くことで自分の世界を創造していった

そんな彼を変えたのはユイだった
初めて誰かを愛すことで、誰かと生きて行けることを知った
だからこそ、失った時の絶望感は計り知れるものではなかった筈

ミサトの父が計画を作った人類補完計画の裏には、ゲンドウの願いもあった
ユイと逢って抱きしめたいという、シンプルかつ不可能に近い計画のために全人類を天秤にかけようとまでした

そんなゲンドウを最期に止めたのは初号機の中にいる、ユイの精神だった
ゲンドウはいつもユイと居たことに気づいたのである
それはシンジであり、レイでもあり、初号機でもあった

シンエヴァの疑問に対する考察

ゲンドウとシンジがエヴァに乗って親子喧嘩をするシーンでは、これまでエヴァに出てきた様々な場所が舞台となっている

ここで観た人は色々な疑問が湧いてくると思うが、私はこれは人間で無くなったゲンドウが、裏宇宙ではエヴァを操縦できないために初号機を介しシンジの精神世界に入り込んで戦闘をしているのではないかと思っている
気になった人は是非劇場で観て欲しい

また、ラストシーンでシンジはマリとくっついて、レイはカオルと一緒にいるシーンがある

これは綾波レイという人格が、ゲンドウの呪縛、つまり最初からシンジに好意を持つよう「設計」されている、という縛りからの解放を象徴しており、シンジがマリとくっついたのはそれを強調するためだったのではないか、と考えている
反論がある人は是非SNSのコメントやDMなどで言ってほしいと思っている

総評

新世紀エヴァンゲリオンが放送されていた時、それを観ていた視聴者も、恐らく監督自身も愛や人と人との繋がりと聞けば、ふん、くだらない、どうせ争うだけのくせに、と返すのではないだろうか
こうした価値観は少しずつ人々へと浸透し、「他者は自らに対して干渉しない代わりに、自らもまた他人のスペースに干渉しない」といった世の流れを作っていったはずだ

では今回のエヴァンゲリオンを観て、愛や人と人との繋がりはどのように描かれているだろうか
もっと言えば、これを作った庵野自身はこの二十数年でどのように変わっただろうか

愛や、人と人との繋がりを新世紀エヴァンゲリオンは真っ向から否定した
では今回はどうだろうか
二十数年の時を経て、エヴァの描く世界は一巡したと言えるのではないだろうか

誰かの為に、生きていこう、と。

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