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冒険家の日

同志社大学の学生が、アマゾン川の源流から130kmのボート下りに世界で初めて成功した。さらには、堀江謙一氏が小型ヨットで太平洋の単独往復を達成したのが8月30日であることから、この日を冒険の日という。

盲目的に冒険というと尊敬しかない。自分は恐怖と戦って生きることができていない。恐怖でも笑って過ごせるようになりたいと思っている。

今日は、次の記事から1冊の本を紹介してみよう。

Son record, imaginé par Jules Verne en 1872, n'a pas tenu longtemps. En 1888, une journaliste américaine parie qu'elle peut faire le tour du monde en soixante-quinze jours.
ジュール・ベルヌは1872年によって、世界1週の記録をイメージしたが、その記録は長続きしなかった。1888年にアメリカのジャーナリストが、75日で世界一周を回ることができると請け合ったのだ。

「あなたは、一人の女性じゃありませんか。そんなのできっこありません。」”ニューヨークワールド”誌はそう書き立てた。しかし女性であることは彼女の石頭を壊すことはなかった。Nellie Blyは1889年にニューヨーク港を出航した。彼女は25歳、簡単な肩掛け鞄に、3ヶ月毎日着れる洋服を求め、そしてピストルを携帯することを拒否した。彼女はまだ人間の本性をいまだに信じている少女だ。
「私が正しく振る舞えば、助けに飛んできてくれる男性がいるだろう」

« Vous n'y arriverez jamais ! Vous êtes une femme, vous aurez besoin d'un protecteur», lui dit-on d'abord au «New York World». Mais être une femme n'empêche pas d'être une tête de mule. Le 14 novembre 1889, Nellie Bly embarque à New York. Elle a 25 ans et «une simple sacoche». Elle a demandé «une robe qu' [elle] puisse porter tous les jours pendant trois mois», et refusé de s'encombrer d'un pistolet. C'est une fille qui croit encore en la nature humaine: Je savais que, si je me conduisais convenablement, il y aurait toujours des hommes prêts à voler à mon secours.»
●une tête de mule ... 頑固な頭

多くの結婚にふさわしいような紳士とすれ違うが、時間が押して恋の逢瀬の暇はない。彼女は多くの時間をボートの上で費やしていた。ペチコートを着た勇敢な女性に夢中になり、読者達をこの大航海の記録達成のための正確な時間を知りたがるように強いる。ロンドンで船を離れ、アミアンでジュール・ヴェルヌ自身の励ましをうける、ヨーロッパは列車が便利だというので、列車でイタリアに向かった。

Dans sa course contre la montre, elle a surtout croisé des messieurs prêts à l'épouser. Il faut bien s'occuper, sur le pont des bateaux. Mais rien ne la fait dévier. Pendant que la presse s'emballe pour cette «intrépide voyageuse en jupon» et invite ses lecteurs à deviner «le temps exact» que prendra son périple (il y a «un voyage tous frais payés en Europe» à gagner), Nellie Bly fait escale à Londres, recueille à Amiens les encouragements de Jules Verne soi-même, se dit que les trains européens pourraient être plus confortables, file en Italie.

彼女は周りが見えておらず、読者は見えている。どうやって伝えたらよいのであろう。これは壮大なアメリカ式ルポルタージュである。サイード港から横浜に至るまで1000箇所に渡る詳細を載せている。そこには冒険のほかに差別の問題を考察したりもしている。10万人の命の犠牲を強いたスエズ運河の問題を熟考したり、イエメンではレモンで頭を白くする方法を学んだり、セイロンでは蛇使いを観察し、シンガポールの”賑やかな”葬式や、香港では結婚式に参列したりと・・・・観光の奇想天外なガイドブックにもなっている。

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「80日間世界一周」というジュールヴェルヌの作品に対し、
ネリー・ブライは«72 jours, 6 heures, 11 minutes et 14 secondes»
72日と6時間11分14秒で世界一周を果たした女性記者のルポルタージュだ。
当時は女性の長旅も大変めずらしいことであった。男性中心社会であったジャーナリズムであり、女性に対する偏見を打破するための冒険であった。
そんな戦いに勝利した女性ネリー・ブライは後半生はどうなったのか。
wikiに従ってみてみよう。
億万長者のロバート・シーマンと結婚した彼女は夫に先立たれた後、夫の事業を継承し業績を伸ばした。そして、牛乳の水差しや重ね置きができる瓶の発明で特許まで得た。この規模の事業者としては女性は、これまた稀であった。女性らしさも活かして数多くの業務改善をする。(日給の導入や、レクリエーションへの投資、労働者のための図書館など)しかし事務作業に無知だった彼女は、工場長に横領され、会社は倒産させてしまうのである。

Rare femme américaine à la tête d'une industrie de cette taille, elle y instaure de nombreuses réformes (salaire journalier, investissement dans des centres de loisirs, des bibliothèques pour les ouvriers, etc.). Son ignorance des affaires et les malversations de son directeur d'usine provoquent sa banqueroute.

 一文無しになった彼女は、再び女性記者となる。第一次世界大戦の潜入取材をしたり、労働者問題を記事にしたり、女性参政権のための運動にも加担する。
 ところが、1922年に肺炎で倒れニューヨークのセントマーク病院で息を引き取る(享年57歳)死の翌日、アメリカの最高のジャーナリストとして記事が掲載された。

À l'âge de 57 ans, elle meurt le 27 janvier 1922 d'une pneumonie au Saint Mark Hospital de New York. Elle est inhumée au cimetière de Woodlawn dans le Bronx. Le lendemain de sa mort paraît un article sur la meilleure journaliste d'Amérique

まさに短く濃い人生だ。

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 平穏無事に細く長く生きる生き方と、太く短い人生は両立しないことを経験的に我々は感じている。しかし理想は太く長くなのではないだろうか。
そして、”太い・細い”というのも、基準がない。サラリーマンでさえも、波乱万丈ともいえるし、人それぞれいろんなご苦労があることだろう。自虐的にいえば、私の波乱万丈は、冒険というより、しなくてもいい苦労をしたということなのかもしれない。明日食う米がなかった日もあるし、ガスが止まった日もある。私にとってはまさに”どん底”である。その代わり、どうやっても生きていけるんだと思った。一念発起して副業でスナックを開業し、サラリーマンでは手にできないような金額を手に入れたこともある、そして、それを投資で一気に失った経験もある。いまだに貯金はほとんどない。しかも、まだまだ転職する気満々である。それでも長生きしたいとも思っているのである。あくまでも太く長く生きていきたい。数値化は難しいかも知れないが、統計的な見地で眺めれば、”太く・短い”と”細く・長く”の中間くらいがほとんどの人の人生の範囲(レンジ)であろうが、面倒臭がってどっちつかずになることは避けたいと思っている。
高度化した世界で長生きしていくためには、冒険が誰しも必要であると思っているのである。

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”そこに山があるから”というのは名言であるが、納得しがたい。
あえて危険を冒すのに、理由なんてないのだ。ただし、自然と自分をみつめて、死を見つめるからこそ生が輝く。その生の輝きを感じに冒険家は旅立つのであろう。

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<来年の宿題>
・冒険小説の紹介
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