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黒の日

 語呂合わせ。伝統染色・黒染めなどを手掛ける京都黒染工業協同組合が9月6日に記念日を制定。

 いまだに、COVID-19 の世界的な影響下にある。
それを、”世界規模で感染症に汚染された”っていう言い方が妥当なのかどうかはわからない。黒死病(ペスト)と比べて良いのかどうかもわからない。
日本についていえば、COVID-19 の死者数は1300人を超えているが、昨年の交通事故の死亡者数は3500人。だからといって自動車を自粛しろとは言わないし、車社会に汚染されたという言い方はしない。数値でなく気分の問題だからか。。。

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 ヨーロッパで起こった18世紀のピクチャレスクという文化的ムーブメントがある。”なんでも見てやろう”という視覚偏重というか、時代が要請した情念がそこにある。わかりやすいことに最初は絵画(タブロー)において起こった。絵画の題材が特徴的になったことに現れたのだ。

Le pittoresque est originellement la qualité d'une chose digne d'être représentée en peinture. Cette notion esthétique apparait au xviiie siècle, et traduit typiquement l'apparence exceptionnelle, colorée, originale, piquante, curieuse ou exotique d'un paysage qui mériterait d'être représenté par un tableau

 「視覚」化とか、「絵」化された世界。 
 情念であるからして、文学(テクスト)にもそれは現れる。それどころか、劇場、見世物、光学(顕微鏡)盛り場、庭園、園芸、観相術、、、18世紀を彩るいろいろな具立(アイテム・ジャンル)は情念が揃えさせたものである。それが、分類学、博物学の通底でもあるというのが、History Of Ideasの見方である。そのことは少しく本Noteの記事でも触れたし、これからも何度も書いてみることになるであろう。
 美学哲学者、政治学者のエドマンド・バークは、「崇高と美の観念の起原」を書いた。18世紀も半ばのことである。柔らかな曲線は男性の性的な欲求に訴えかけ、崇高な恐怖は自己保存の欲求に訴えかけた。ピクチャレスクは対立する概念である美と崇高の調停者として役割を果たすのである。
トーマス・グレイがスコットランドの高地について、荒々しい山々には、もっぱら神の怪物がいる。それは多くの美と多くの恐怖を結びつける方法を知っている。と書いたのはバークの具体例である。

Edmund Burke dans son 1757 Une enquête philosophique sur l'origine de nos idées du sublime et Belle a fait valoir que les courbes douces douces ont fait appel au désir sexuel masculin, alors que les horreurs sublimes appel à nos désirs pour l' auto-conservation. Pittoresque a surgi comme un médiateur entre ces idéaux opposés de la beauté et le sublime, montrant les possibilités qui existaient entre ces deux états rationnellement idéalisée. Comme Thomas Gray a écrit en 1765 des Highlands écossais: « Les montagnes sont extatique [...]. Il n'y a que ces créatures monstrueuses de Dieu sait comment joindre tant de beauté avec tant d' horreur. »

 均整がとれたものは、それだけでは美でないとわざわざバークが言うのは、崇高な観念と美を結びつけたかったからだ。そして崇高は恐怖に裏打ちされる。山の神が怖いのは死の恐怖、闇の恐怖、得体の知れない差異をそこに感じるからである。切り立った山から落ちることを想像しなければ山々の美しさは感じられないのだ。
 同じ現象が、同時代の江戸にも現れる。鶴屋南北である。
彼の悲劇と喜劇を織り交ぜて併存させているのは、バークの逸楽(デイライト)になるのである。なぜ人はホラーをたがるのか。それは、切り立った山の絵をソファーに座って、紅茶でも優雅に飲みながら眺める悦楽でもある。化政文化の中で、深川八幡の大祭のおり、永代橋が落ちて1500人もの人が溺死した事件があった。それを江戸人は「同じ名もかくあるものか土左衛門 名は永代の恥の書き上げ 」と表現した。痛烈なというか、不謹慎極まりないアイロニーだ。悲惨と笑いの綯交ぜである。それが不条理を際立たせる。それを鶴屋南北は舞台の上で表現した。それが人気を博したとあれば、
当時の江戸人の情念にうまく訴えていたのだ。
wiki の表現を借りてみよう

旧作に諧謔を弄した作風に優れ、また奇想天外な着想と現実主義に徹した背景描写を得意とした。『仮名手本忠臣蔵』の悪役定九郎が正義の忠臣として扱われたり(『菊宴月白浪』)、殺人現場で婚礼が行われたり(『東海道四谷怪談』)、葬儀と婚礼とが同時に家の中で行われたりする(『法懸松成田利剣』)のをはじめ、花魁が裏長屋に来たかと思えば(『浮世柄比翼稲妻』)、公家が生活苦のため陰間になったり(『四天王楓江戸粧』)、姫君が辻君になったりする(『桜姫東文章』)のは、全く性質の異なる世界を綯い交ぜにする展開を最大の特徴とした南北の真骨頂といえる。また頽廃と怪奇の中に毒のある笑いを加味したその作風は、文化文政時代の爛熟した町人文化を色濃く反映していることでも知られる。

 ブラックユーモアという表現では書き足らないが、南北が染め物師(紺屋)の息子であることから、”黒く染める”と表現する。ローリング・ストーンの”黒く塗れ”というテーゼは、価値を反転を表現したものであろうが、そこに百姓(ひゃくせい)たちの闇をも抱えていると見たい。イメージ専攻で絡め取られた闇を冷たすぎる笑いで浮き上がらせる行為なのだ。それは、物産展での物欲合理主義の展覧にみる圧倒的な量を誇る並べて立てが、皮肉にも影を立ち上らせるアレゴリーである。
 ともかくも江戸もHistory Of Ideas の通底は射程内であり、普遍的な人間のイデアを表現しているのだ。

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 COVID-19 の時代、自動車は自粛せず、自らが自室に閉じこもった時代はどんなイデアを人々にもたらしているのだろう・・・
 恐怖に裏打ちされた笑いは、消毒されてしまう時代でもある。あまりにも痛烈な表現は現代人の情念に合わない。そんな機微をみせるのである。
密を嫌い、人々が集うことを禁じられ、それでいて、いろんな発言に”節度”を強いる社会はまさに息苦しいと感じる。
 がしかし、逆手にとれば 結構楽しいものだ。いままでは都会にいなければ仕事はなかった。都会こそが文化の華々しさを体現する場所であったわけだが、それは密集こそがなし得た文化である。密集が人々の匿名性を生み、匿名性が自分とは違った世界をつくりあげ、異界や魔都の温床であった。その神話はベールを剥がしつつある。匿名性の集いである聖地はだんだん吸引力を失いつつあるのだ。
 してみると都会に集う必要はもはやなくなってくる。人々は遍在性を手に入れることであろう。どこにいても、ネットを通じてつながる、頭ではわかってはいたものの、魔都のリアル性によって、その魅力が半減していたが、集合するリアル性はもはやなく、魅力だけが残る。どこでもドアを手に入れた人間はどこに住んでもいいわけだ。利便性に負けて高い家賃を支払うのもバカバカしくなってくることに気づくであろう。
 一方でネットを支えるプラットフォーマーの役割は一層増大してくる。
過激な発言が消毒された中ではサブカルチャーはもはや小出しに爆発はできない。そしてブラック・スワンはロングテールの中で発生するとなれば、もはや いつでもブラック・スワンが”偏在する”ことになる。

Mark Spitznagel, quant à lui, est diplômé en mathématiques de l’université de New York. Il commence à trader sur le marché des commodities avant de devenir trader indépendant sur le Chicago Board of Trade puis pour fonds propres pour Morgan Stanley à New York. En 2007, Taleb et Spitznagel s’associent pour créer Universa Investments, qui deviendra le premier fonds à mettre en pratique l’investissement “Black Swan”.

 ブラック・スワン投資という方法は、人気がなくなってきたが、実は本当の真価はここから発揮されることだろう。人々が都会に集って人口比率がベルカーブを描いていた時代はもはやなくなってくる、マルデンブロのいうようにロングテールの時代こそ、極端なことは起きるのである。そうなるとブラック・スワンはいつ起こるかも知れないものだ。COVID-19 によって株価が大打撃をウケないのはその逆証明である。
 スピッツナーゲルはブラック・スワン投資法は、臆病な人、せっかちな人に向けた投資法ではない。それは、ある朝起きたらラフマニノフが弾けることを信じて、10年もピアノをやっている人が”月光”をひくのに苦労しているようなものである。

L’investissement sur les cygnes noirs n’est pas fait pour les personnes peureuses ou impatientes. Comme disait Spitznagel, c’est comme essayer d’apprendre le piano pendant 10 ans et avoir du mal à jouer « Au clair de la lune » dans l’espoir de se réveiller un jour et d’être capable de jouer du Rachmaninoff.

 長期的視点に経っていようがいまいが、これからはブラック・スワンが起こる頻度は増してくるのかもしれない。してみると勉強する価値がある情報なのか・・・頻発するならもはやブラックではないので、また違った見地も必要になってくるだろう。
 ベルカーブが消える、正規分布どおりに物事が進まなくなる世の中になるのは間違えない。それがHistoryOfIdeas的にどのように捉えられるか
見極めるのは、もう少し先だ。

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<来年の宿題>
・ 黒に染める 再読
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