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考古学出発の日

モースが来日した日を記念したものだ。
”あぁ!1877年の今日モースがきたんだぁ、、、、”
という日なのであるが、そんな感慨ではなく、
日本の考古学がここに始まったということである。
そういうことなら、モースよりもむしろハインリヒ・フォン・シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男)であろう。モースは考古学というより進化論で教鞭をとった。
 大森貝塚は露出(列車の中からモースが”発見”したといわれる)していたが、誰もそれを史跡とみなすことはなく、看過していたという。
発見というからには、新規性が必要で、この発見の価値はそれが”古い”ということを言ったからであろう。つまり、その貝が堆積したところを調査して、土器、土偶、石斧・・・・などが発掘できたことだ。だから”貝塚を発見”という表現だと、私のような素人は誤解してしまう。

 大森貝塚は縄文時代後期のものだという。縄文土器は非常に独特で、弥生式土器は機能的で使いやすいことを狙っているが、縄文式土器は装飾が過多だといわれる。でも、装飾ではないということである。あるメッセージがこめられているという。単なる装飾なら、いろんな模様があるが、土器(その炎のような形から火焔土器といわれる)には決まった形の模様がある。

「鶏頭冠突起」という鶏のとさかのようなオブジェが付くのです。火焰土器には、どんなものにもこれがみんな付きます。
(中略)
さらに、袋状突起というポケットみたいなものが付いている。それらは必ずあるのです。それがなければ、火焰型土器ではないのです。
           小林達雄. 「縄文文化が日本人の未来を拓く」より

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 この突起は実用性をかなり損ねている。物を取り出しにくいし、入れにくい。だから飲食をはじめ、日常生活の便利のために作られたものではないことがわかる。残存の仕方から、かなり丁寧に扱われたこともわかる。だからこそ何らかのメッセージがあり、そのメッセージは縄文人の世界観を伝えるものなのである。
 岡本太郎は、火焔模様に魅せられた一人である。芸術性はさることながら、生命力みたいなものを強く感じる。
 次に土偶をみてみよう

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 このフォルムから人間の女性を表現したものであるとされてきたのだが、
極端にデフォルメされた曲線、この曲線を描くことができる技術があるのであれば、もっと人間に似せて作ることも可能である、だから人間ではなく、精霊を表現したものだと、あっさり小林達雄さんは言ってのけた。
 まるで前衛芸術のように感じる。ある意味非常に現代的でさえある。
フランスの表現を借りれば「NARUTO(漫画)から遡ること5000年以上前」にこの芸術は存在しているのである。

On l’avait découverte il y a vingt ans à la Maison de la culture du ­Japon, à Paris. A peine haute de trente centimètres, cette statuette en terre cuite aux hanches généreuses en forme de cœur inversé, aux seins minuscules, au ventre arrondi et aux yeux bridés, était l’une des pièces vedettes de l’exposition « Jomon, l’art du Japon des origines ». On la retrouve aujourd’hui, cette Vénus Tanabatake, dans ce même lieu du 15e arrondissement, au cœur de la nouvelle exposition consacrée à l’art des premiers habitants de l’archipel nippon.

 Le Mondeの記事は上記のように伝える。
祭祀があることは。祭祀があるなら言葉があり、、、と、どんどん想像が膨らむ。アニミズム信仰をみてとる学者もいる。
 さらには、縄文に魅せられた人々から、日本はここに帰れとか、この縄文精神を思い出せとかいわれる。
 たしかに芸術性は高いと思われる、精神性も強く感じられる。素晴らしい生活を送っていたという説明も説得力があるように思う。
 ただ、”帰れ”と言われても、どこへ行けばいいのか・・・
”思い出せ”といわれても、いや、はじめてみるものだし・・・
 ロマンに浸るのも夢中になるのもいいんだが、現実に梯子をかける議論にもってかないといけないな・・・と感じている。
かくいう私も縄文時代のもっているポテンシャルには圧倒されているので、
現実に梯子をかける考察をしていこうと思う。
するとここで、梯子をかけるための理論武装の題材ももってこいの
過去記事を引用しよう

エリアーデの「エピファニー」(顕現とでもいうのか)
の議論は複雑である
ベルグソンなどの時空も視野にいれるとさらに複雑なので
またにしよう

世界のモデルというものが存在するということなのだろう
モデルが顕現する場を考えるのである
源流とでもいおうか

それが神との接点、神との場所である
それを遠方彼方でなく身近に作ろうとする情動もある
土偶(縄文時代)、埴輪(弥生時代)は
その表れであるという

たしかに何かの道具というわけではないそれらの存在理由は
そういった宗教感の表れという説明が一番うなづける
宗教家ではないので、よくわからないが

デカルトでさえもフラシーヌという人形を忍ばせていたという
ここではエリアーデぽく世界観をみてみよう
宇宙木とか山というシンボリズム(アレゴリー)を拠り所とする
文化とは、世界(宇宙)のモデル化の表象にすぎないのである
北京原人の発見者であるテイヤール・ド・シャルダンは
独特な世界観をもつ
キリスト教的進化論を唱える
まずは、歴史をつぎのような3つの段階にわける
生物圏(ビオスフェア)
叡智圏(ヌースフェア)
オメガ
生物圏では、鉱物の世界から生物を誕生させた
叡智圏では、人間を誕生させた
そして今はオメガに向かっているとのこと
オメガとは、キリストの復活のことを指しているのだろう

ともかくもこういったモデルを創出しないと
しかたない文化的側面を人間がもっているということである
生物圏という考え方は、
以前に本稿でも書いたラブロックのガイア理論を彷彿させる

(何に対するバランスかは知らぬが)
地球全体をひとつの生物と見たてるのである
動物にも植物にもミトコンドリアをもつという共通点がある
(パラサイト・イブ的な見地)

トーマスブラウン卿は
カバラ数秘術お得意の彼は
もっとも安定した状態は偶数ではなく
5である
そして植物に完全数5を充てる
動物は所詮偶数にすぎぬ(足の数を数えたのか)

生物という目でみると動物は植物なしでは生きていけない
たとえばサンゴは、海中の藻と共生しないと生きられないとのことである
このように動物、植物は、バランスをとって地球を形成している

それにしてみるとテイヤール・ド・シャルダンはずいぶんと
人間中心主義に見えるかも知れぬ
しかし、人間という種は猿と染色体的にはあまり変化がない
ところがだいぶ違う
つまり形質を変化させることなく、進化を遂げた
進化する部分を外部にアウトソーシングした
という考えをするのである
こう考えるとなるほどレベルが違う変化をしているといえばしている
たとえば道具の使用である

ロジェカイヨワは「対角線の科学」の中で
蝶の羽の美しさと対比し、人間は絵筆を使って実現しているという
認識論的見地からは突っ込みどころ満載で
あいた口がふさがらない貴兄もいるだろう
けだし文学は哲学を下敷きにしていることはそのとおりだが
必ずしもそうも割り切れない人間の性(さが)に注目するものでもある

いろんな本を読んでいるのはよいが消化できていないので
断片のみがあふれてくる過去記事だが、(自分が書いたものなので)なんとなく言いたいことがわかるが、書けていない。
この記事がしっかり書けるような学力を持つことこそが、現実との梯子に役立つのだろうと思う。
 人間が技術をこらしても蝶の羽根の美しさを表現することはやはり難しい。できたとして、大変な労苦をする。ならば、人間は分を超えず楽しんだ方がよいのではないか。。。ということだ。蝶の羽がどうしてそんなに美しいのかその夢想に浸ることこそ人間の遊びなのではないだろうか。
 縄文時代と現代とを結びつけるキーワードに”遊び”という概念、そしてそこに活力みたいなものが見いだせるのであれば立派な梯子になるのではないか。。。自然の征服や克服でなく自然との共生を本源的にどこまで人間が考えるのか、もっといえば、”感じられるのか”ということを考えようと思う。

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