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日本母親大会

日本母親大会の日・・・今日は開催日なのかと思ったら、
そうではなく、第一回大会が1955年に開かれたのを記念した日である。
前年のビキニ諸島での水爆実験に反応し、反核を訴えたのが始まりである。
起こしたのは 平塚雷鳥 である。

en 1911, le premier magazine littéraire féminin japonais "Bas Bleu", en japonais Seitô(青鞜), dont le premier numéro commence par les mots : « Au commencement, la femme a été le soleil »  

「原始、女性は太陽であった」が、フェミニストを刺激し、世界に響いた。
平塚雷鳥は、1908年に塩原事件を起こして物議を醸す。
塩原事件は、妻子ある男性と恋仲となったおりの心中事件であるが、平塚雷鳥は、男性に覚悟がないことを見抜いていた。つまり実行されないと踏んだ茶番劇なのだが、当時の世相とあいまって世間を騒がせてしまったのだ。ちなみに相手は漱石門下の森田草平。草平はのちにこの事件を題材に「煤煙」を書く。この当時、雷鳥自体が恋愛に目覚めていたかどうか疑わしい。
そもそも雷鳥は文学への目覚めも、かなり晩稲(おくて)で、”観念大好き乙女”だった。この観念好きは、禅寺の師匠にキスをするという事件も起こしている。「神をみる体験をしたい」その一心で(つまりは興味本位で)禅寺に修行にいくのだ。単なる観念好きというより、体験好きといったほうが的確なのかもしれない。思春期の好奇心も同様に発芽し、禅寺の師匠に”いたずら”をしてしまうのであるが、この師匠もかなりの堅物というわけでなく、今とは世相は違うのである、禅師は当時のならいで結婚を考え還俗も辞さない覚悟をみせるが、これには逆に、雷鳥が驚く番だった。本人は後に振り返り、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」の影響だとシラッと言い放つのである。つまり恋に恋するお年頃にハマった男性はたまったものではない。
森田もそんな女性のコケティッシュに参ってしまったものとみえる、しかし翻弄されている自分を認めたくない若さも手伝って、いろんな恋愛の行動(長々手紙を書いたり、本人の前に突然現れたり・・・)を繰り返しては自らの熱情を虚偽的に募らせてしまう。本人の沽券に関わる話で、正当化するための小説まで書き上げる。それは、俺はここまでやるんだという酔いに過ぎないが、雷鳥の方も酔狂なのだから本当にお騒がせな事件である。ともかく心中事件はスキャンダルになり、さらに男の言い訳のかなり盛られた小説までかかれてしまった。彼女自身はそんなところもどこ吹く風だったらしいが、とにかくこの事件をきっかけに女性どおしの結びつきは強くなったものと思える。そして、雑誌「青鞜」の創刊に連なるのである。(青鞜とは当時のご婦人に流行っていたブルーストッキングの和訳)
フランスのWikiでは こういった背景を知ってか知らずか
「原始、女性は太陽であった」について

plus tard interprétés par les lecteurs comme une référence au mythe Shinto de la création et à l'idée, populaire à ce moment, que toutes les sociétés préhistoriques ont été matriarcales. Ce n'est toutefois pas l'intention de Hiratsuka Raichô, qui répond plutôt aux allégations de Nietzsche sur l'infériorité de la femme.
拙訳)この言葉が神道の始まりの先史時代の母系文化だという当時人気の思想だと解釈されたが、そうではなく、ニーチェお得意の女性蔑視についてのアレゴリーへの応答だったのではないか

これが、雷鳥らしき「観念好き」が嵩じたものなら、なんとも楽しい。ドイツ観念論も興味で読みこんだ雷鳥のなせる技である。
(しかしこのくだりは日本語のWikiには載っていない)
平塚雷鳥が本当の恋愛を知るのは、「青鞜」の創刊後のことだ。
5歳年下の奥村博史に出会うとゾッコンになり、夫婦別姓の事実婚を成し遂げる。この事実婚というのも、ぶっ飛んでいるが、スローガンからして言ったもん勝ちな勢いで、青鞜に関わる女性は「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」などお騒がせムード満載なのだ。
病気がちな奥村の看病と両立できないと、その編集長の座をさっさと伊藤野枝に譲るのだが、「青鞜」が思想を持つのは、ひとえに、この伊藤野枝の功績なのである。がしかし、大杉栄の「日蔭茶屋事件」でそれどころでなくなり、休刊となり、大正大地震時の惨殺後、廃刊を余儀なくされる。
 売れない画家奥村を母性で助ける平塚雷鳥という姿は、鉄幹の横暴に対し筆一本で自立する与謝野晶子とはとても対照的に映る。雷鳥には婦人運動の旗手が痛い刺激を送るのだ。負けず嫌いの雷鳥はその度に反撃していた(母性保護論争)。しかし、無産主義者 山川菊栄から手痛い刺激を受けたのにはかなわなかった、この刺激が第一原因となり、奥村との農村での生活や消費組合などを通して無産主義者としての自覚が醸成されていったものと思われる。共産党の選挙活動を手伝ったりする姿はアカくみえてはいたが、それでも観念大好きな性格はあまり変わらなかったようだ。
市川房枝をして「彼女(雷鳥)はイデオロギーは持っていませんでした」と言わしめている。雷鳥がすごいところは、イデオロギーでなく、大風呂敷なのである。観念の広がりのスケールは行動よりもスケールが大きいのだ。
この大きさが推進力をもったのだ、そして素晴らしいイデオロギーの持ち主と呼応する巫女のような能力も併せ持つのである。彼女単独をとってみれば声も小さく弁士にも向かず、身体も弱くて無力にも見えるが、観念大好きな夢想は世界中を駆け巡り、優れた思想感性と行動力を併せ持つ才女を引き寄せる不思議な力で婦人同盟を結成するのである。新日本婦人の会を結成したときには、あの野上弥生子を引き入れている。

母親大会をイデオロギーなき運動と切り捨てては決していけない。
”夫や息子を二度と戦争にいかせない”という思いに理屈なんかそもそもなくてよく、絶対善と思うべきであるというのが私見である。男の粗野で身勝手な横暴で絶対善を汚すべきではないだろうと思うのだ。それより、コケティッシュな女性を守るのが殿方のダンディズムだと思う。

男のクソみたいな沽券に対して、野上弥生子は強敵である。
来年のこの日は、野上弥生子について書いてみようと思う。




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