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スエズ運河の日

1869年11月17日、地中海と紅海を結ぶスエズ運河が開通した。
この運河ができるまで、中東アジアと欧州の往来には、なんと!アフリカ大陸を迂回していた。スエズ運河が開通により、大幅なコストと時間が短縮された。

世界中の人が喜ぶと思いきや、イギリスは妨害した。
イギリスだって助かるはずなのである。インド諸国や中国との貿易が半分を占め、スエズ運河開通により、距離が半分になり、輸送費は1/3になるからである。
イギリスがこの申し出をしても拒む理由は、地中海諸国が地理的立場を利用して、東方貿易の利益をわずかでも拡大するのを嫌がったのである。
この拒否もレセップスには読めていた。イギリスがだらしなく広がるトルコ帝国の現状に満足していた。東西を分断する位置にある帝国は欧州の列強、特にロシアとフランスのイギリス領インド接近を阻止していたのである。
サイードもこの建設許可の折、自らの権限に制限がかかることは承知していた。レセップスは画策に走り、フランス自らが推進者であっても、あくまでもこの事業がエジプト政府とレセップスの個人的提携によって商業ベースで推進されることを機会あるごとに強調した。
が、予想通り、イギリスは建設の認可をおろさなかったのである。これをうけてさっそくレセップスは動いた。サイードの心が折れることのないようエジプトに引き返し説得した。さらには、自国フランスに支持をとりつけ、ロンドンに乗り込んで反対勢力を説き伏せるため孤軍奮闘した。
イギリスの見解は、国家の不利益を懸念してのことが本音であるが、あくまでも、開削に関する技術的な問題に終始した。イギリスの頑ななまでの反対はレセップスを別な方向に向かわせる。会社を作るのだ。スエズ運河会社が1854年に成立する。持ち株比率もフランスが筆頭にならないように注意深くした。ここでも英国は妨害に出る、英国民がスエズ運河会社の株を買わないよう圧力をかけたのである。しかし、サイードがここで奮起する。不足分を用立てただけでなく、次のようにいう「ヨーロッパの人たちが、地峡貫通計画をレセップス個人のものと考えているとしたら間違えだ。運河は私(サイード)に栄光を、オスマン帝国にさまざまな利益をもたらしてくれる。またこの計画を推進すれば、全ヨーロッパの共感が私に寄せられることになる」

Le 15 décembre 1858, après quatre ans de négociations et de difficultés de toutes sortes suscitées par la diplomatie anglaise, la « compagnie universelle du canal maritime de Suez » est constituée, avec un capital de 200 millions de francs, divisé en 400.000 actions de 500 francs : 207.111 actions sont souscrites en France, 15.247 à l'étranger et 177.642 par Mohammed Saïd. Le vice-roi d'Egypte permet à Ferdinand de Lesseps de donner le premier coup de pioche, à l'emplacement actuel de Port-Saïd, le 25 avril 1859.

こうして、1859年4月25日に果敢に着工に至るのである。
政治的な不安がつきまとったまま、小さい会社の規模のスエズ運河会社は難航の船出に出たのである。そこにはさまざまな文化の問題も横たわっていた。

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小さな会社に、砂漠に覆われた運河の建設を推進する人的リソースはなかった。エジプト副王は、ナイル河口の農民を工事に動員できるようにした。極限の状態の中、手作業で行われた労働は過酷だった。1859と1863年の間に数万の人々が亡くなったとみられる。

Pour conduire le chantier du canal en plein désert, il n'y a pas de main d'œuvre disponible sur place ; le vice-roi d'Égypte propose de faire appel à la corvée, système traditionnel qui permet de mobiliser les paysans chaque année, pour l'entretien des canaux creusés le long du Nil. Une main d'œuvre gratuite va travailler à la main, au creusement du canal, dans des conditions extrêmes : on estime que plusieurs dizaines de milliers d'ouvriers sont décédés entre 1859 et 1863.
●corvée ... 雑役

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すると、イギリスは、雑役の使用を非難し、オスマン帝国は、レセップスが工事を止めるように要求する。これを1864年7月にナポレオン三世が国際的となった紛争の仲裁に入ろうとした。彼は新しいエジプトの副王であるイスマイル(サイードは熱病のためすでに死亡)の権威のもとに、イギリスの反対を退け、フランスの会社が事業の主導権を握ることを要求した。フェラー(エジプトの自作農民)に取って代わり、ギリシャ、イタリアなどの外国人労働者が担うことになった。スエズ工事は、技術進歩の象徴となり、土木工事の歴史に新たなステップを刻んだ。

La Grande-Bretagne dénonce l'utilisation de la corvée et l'Empire ottoman exige que Ferdinand de Lesseps arrête le chantier. En juillet 1864, c'est l'empereur Napoléon III qui va apporter son arbitrage à un différend qui devient international : il reconnaît l'autorité du nouveau vice-roi d'Egypte Ismaïl, écarte les arguments de l'opposition anglaise au canal et exige une entreprise française pour diriger les travaux. Les « fellahs » sont remplacés par des ouvriers étrangers (grecs, italiens...) et un effort de mécanisation sans précédent est engagé : le chantier de Suez devient un symbole du progrès technique et constitue une étape cruciale dans l'histoire du génie civil.
●fellah ... エジプトの自作農民

スエズ運河は、ポートサイードのすぐ近くを通過する東経32°20 'の子午線に沿って北から南に走っている。 2つの港がその先端を示す。1860年に地中海の出口で、ポートサイードの港と同じ名前の都市が形成された。 南には、紅海の出口で、古代アラブの都市スエズの依存関係であるポート・シューフィックがある。 途中、イスマイリアの町は1863年に設立され、会社の主要な人員の住居として機能する。 運河の長さは161,150km、水深は8メートルです。 それは閘門がなく、自由に入る海と同じ高さである。
1869年3月18日、地中海の海域が貯水池に浸水した。 8月15日、紅海を支える堤防が切断され、2つの海の水がAmer(苦い)湖で合流し、 11月17日、すべての国の政治家の立ち会いのもと、ポートサイードで運河が正式に開通した。 世界のすべての海軍に属する80隻以上の船が運河に入り、16時間の効果的な航海の後、1869年11月20日にスエズの港に停泊することになった。

Le canal de Suez est orienté du nord au sud, suivant le méridien 32° 20' de longitude est, qui passe tout près de Port-Saïd. Deux ports marquent ses extrémités : à son débouché dans la Méditerranée, celui de Port-Saïd créé ainsi que la ville du même nom, en 1860 ; au sud, à son débouché dans la mer Rouge, celui de Port-Thewfik qui est une dépendance de l'ancienne ville arabe de Suez. A mi-distance est fondée la ville d'Ismaïlia en 1863, qui sert de résidence au personnel dirigeant de la compagnie. La longueur du canal est de 161,150 km, la profondeur d'eau de huit mètres ; il est sans écluses et de niveau avec la mer qui y entre librement.
●écluses ... 閘門
Le 18 mars 1869, les eaux de la Méditerranée pénètrent dans le grand bassin ; le 15 août, la digue qui retient la mer Rouge est coupée et les eaux des deux mers se rejoignent dans les lacs Amers. Le 17 novembre, le canal est officiellement inauguré à Port-Saïd, en présence de personnalités politiques de toutes les nations. Plus de quatre-vingt bâtiments appartenant à toutes les marines du monde, s'engagent dans le canal et après seize heures de navigation effective, jettent l'ancre dans la rade de Suez, le 20 novembre 1869.

レセップスを称え、栄誉と賛辞に世界中が沸いた。ヨーロッパ各国で祝賀会に招かれレセップスは祝福に包まれた。
ロンドンでは名誉市民の栄誉に輝く、ロンドン市長はいう「我が国の著名な技術者たちは間違っていました。スエズ運河は現にあるんですから」
またタイムズ誌は次のように書いた「レセップス氏が今訪れているのは、スエズ運河建設にまったく手を貸さなかった国である。運河開通後、その国は全交通量の半分を占めるようになった。この国が株主の配当金を提供するのは、過ちに対する償いである」

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既得権益を脅かす理想に燃える変革は、ときに妨害にあう。
ブロックチェーン技術は、まさにそれである。
国の既得権をどんどん民間が奪取できる。たとえばビットコインは国家から造幣局を奪う。国のお墨付きを電子化してしまうことで、行政の承認権をも奪える。しかし、国のこれらの権利に群がっていた既得権を持つ人々は、そんなもの信じられない、安全性はどこにあるんだと貶しめようとする。
ブロックチェーン技術の普及は小さな政府を実現でき、ビジネスを加速させる。スエズ運河も世界に利益をもたらすものだが、イギリスの既得権に触れた。だが、レセップスが現れた。彼なしには開通まで至らなかっただろう。
ブロックチェーンはどうだろう。

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<来年の宿題>
・スエズ運河開通について
・レセップスの生涯について
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スエズ運河(画像はお借りしました)


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