杜甫の詩に「月夜憶舎弟」がある。
露從今夜白 は、”露は今夜より白く”と読むが、意味は今夜から白露の季節であるという意味だ。この作品は、杜甫が官吏を捨てて家族とともに過ごす時間が増えた頃の詩である。
この前に月夜という詩を読んでいる。こっちはもっとせつない。
杜甫がみている月を 妻も”閨 中 只 独 看” たった一人で見ているのだろうと思って切なく心が寒くなる。雲鬟に妻の髪の毛を思い、”清輝玉臂寒”と月光に照らされる妻の美しい肌を思い出すのだ、やがて妻と二人で照らされる日を願う気持ちが月影の輝きとともに映像化されて、心がつられてしまう。
ときに安禄山の乱、杜甫は捕虜として捉えられて長安にあった。北方(鄜州)に疎開した家族といつ再会できるかわからないときに詠んだのだ。
ようやく露が白く濁るころとあるから、いまのように猛暑が9月になっても続くような気候ではないのであろうか・・・24節気の白露(はくろ)は陰りが見え始めた中にも夏の日差しの名残光も感じられ、なんとも美しい言葉である。文屋康秀も
と詠んでいる。こういった消えゆく者をはかなさとともに歌にするのは、日本が得意とする美意識であろう。
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この白露の中にも世界があるのかしらん、と覗き込む。
なるほどその中には草迷宮の入り口がみえてくる。今日は、泉鏡花が亡くなった日である。
泉鏡花の小説には、水がなにかのターニングポイントになる場面がある。
「高野聖」の中にもそれは現れる。川で蛭に血を吸われた身体を女に洗ってもらっているシーンを引用してみよう
まさに誘惑の水なのだが、そこは修業僧、その誘惑を乗り越えていく。
実はこの川は境界。実に危うかった。誘惑に乗じて女を拐かそうとしたなら、蝙蝠や猿に変じてしまったであろう。こうした輪廻の境界的世界はV.ターナーを想起させる。自然はしばしばそういう世界の入り口になるのである。
そして、この誘惑の水は再生の水であり、そういった両義性をもった境界だ。ユング型心理学の根底に、人があまりにも合理に偏ると夢のお告げで警告を出す。高野聖はそうした警告の世界であった。この作品だけに限らず、「化鳥」のなかにもそういった世界がある。番小屋で橋銭をとって暮らしている母子がいる。ある日子供が川に落ち溺れかけたが誰かに救われる。それは五色の翼の生えた美しいお姉さんだと教わり、それを探しにいく。というプロットだ。メルヘンとも童話文学ともいってよいのだが、ちょっと書きっぷりが童話らしくない。
両義性をもつ水という境界(裂け目)に、幻想ロマンを求めた鏡花。
月を見ることで、妻や弟に思いを馳せる。
まさに白露は、夏と秋の裂け目であり、ロマンを感じる時節柄なのである。
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<来年の宿題>
・ 草迷宮 再読
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●見出しの画像
白露(はくろ)と読む。木々草花に宿るしらつゆが、ひとしおの秋を彩りはじめる。72候なら草露白 このあとの季節は、日本なら鶺鴒鳴(せきれいなく)中国では、玄鳥帰だ。
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