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今日は言葉の日

アフォーダンスというのはギブソンの造語だそうだ
今日はことばの日だということだけれど
この日の作成者はどういうアフォードを我々にしたのだろう。
不明だが、自分の反応はその意図とは無関係で
「ことば」との”きっかけ”として捉えるのである。

そもそも、このアフォーダンスという単語(ことば)は心理学の文脈で知った。それはWeb業界の用語だったので、おそらくは、ノーマンの誤用経由で理解した。人間工学的見地からここにボタンがあるとクリックしやすいとか
そういうコンテキストだった。しかしこれはいわば、狭義のアフォーダンスである。ノーマン自身が気づいていて、”シグニファイア”と呼ぼうと提唱している。


アフォーダンスとは

Le terme d'affordance est emprunté à l’anglais et il est parfois traduit par « potentialité ». Il dérive du verbe to afford qui a un double sens : « être en mesure de faire quelque chose » et « offrir ».

とフランス語のWikiにはある。
つまり潜在的可能性(potentialité)ということなのだが、だいぶ人間工学によった定義である。

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知覚との関係で示せば、上記のようになる(図はお借りした)
というお膳立てのもとに 過去記事を引用してみよう

2010年の3月29日の記事である。

昨日のTVで
故郷を離れて上京する人を取材していた
わたしは20歳前に東京を目指してきた
といっても東京というところが
素晴らしくいいところに見えただけで
野心のかけらもなかったのだが・・・
わたしの故郷では
イルカをたべる
それはいわないようにと
妹にいわれたことを覚えている
でも 確信犯的に ばらしてしまった。
なにが悪いと!

まぁ独特の獣くささがある
クジラと同様である
大きめの魚や海の哺乳類にある特有のにおいだ
この成分は 不勉強のためわからぬ
でもクジラにもイルカにも
同様に大量に含まれている
色素たんぱくがある
ミオグロビンというらしい
このたんぱく質はヘモグロビンよりも
酸素をよく吸収するため
水中にもぐっている大型の魚には
大量に含まれている。
多くの酸素が必要だからだ。
これは海にすむ動物に限らず
一般に肉の色が赤なのは
このたんぱく質による
もちろん人間にもある
クラッシュシンドロームとよばれるが
圧迫されていた筋肉が解放されると
大量に噴出する
このときに腎不全になってしまう人もいるが
このたんぱくが大量に出ると腎臓の機能を停止させる
らしい
さて、魚の食べごろも肉の食べごろも
実は少しく酸化が進んだころが望ましい
これに関連して、
活け〆という技術は
鮮度だけでなくそういった食べごろにも
ちょうどいい 

ぶりも捕ってから3日くらいが食べごろで
旨みがのる
しかし色が変色するために売れ行きが
よくない
そこで
「 こうした「味」と「見た目」の時間差を解消しようと、県水産試験場(佐伯市上浦)は2007~08年度、
製薬会社と共同試験を実施。カボスの果汁でつくった粉末を飼料に0・6%配合したところ、
配合しない場合に比べて、変色を最大40時間遅らせる効果があることを突き止めた。
 カボスに含まれる抗酸化物質ポリフェノールが、ミオグロビンの酸化を防ぐ働きをしている可能性が高い
という。
こうした効果を実際の養殖現場でも確かめるため、
09年度には佐伯市内の養殖業者のいけすを使って試験を開始した。」
というニュースをみた。
見た目においしさが隠れてしまうのは
アフォーダンスの狂いであろうか
明太子などに使われる
着色料についても
見直したいが
なによりも消費者の食の美意識の変革が望ましい
のではないだろうか・・・・
と思う今日この頃である。
    

この記事には 紅いタンパクというサブタイトルがあった。
1つには、TVなんか当時(10年前)は見ていたんだな
ということ
2つめは アフォーダンスという言葉がそれらしく使われている
ということに気づく。

自然界において、ブリが食べられやすいように(それこそクリックされやすいボタンのように)変色するわけもなく、これはブリでなくしてto Afford したのは当然食品会社 ということになるのだが、食品会社のアフォーダンスと消費者の知覚(ここでは視覚)とを一致させようとしている。
 ここで”美意識”という表現で書いているそれは、アフォーダンスという言葉の並び(文脈)で書くなら”いまが食べごろですよ”というアフォーダンスに対して 人間の知覚が正しく反応しろ、というところであろうか。

 目利きが良い人なら、着色なんてしなくても、たべごろのブリや美味しい明太子を選び取ることもまた可能であろうと思って書いたのである。

思えば食品会社が施すこの着色は、買わせようとするアフォードであることがわかるが、このような場合、ひねくれ者の自分は、それとは無関係にいたいと願う者なのである。

すべてのシグニファイアを無理に知らないものとみなすということではなく、世間一般が私に求めるであろう反応に対して無関係でいたいと思うのだ。とかく日本は隠れたコードで満ちている。このコードとはドレスコードの”コード”である。 ”世間なみにしなさいという”一種のシグニファイアである。しかし、アフォードした者が気持ちがいいだけで、この要求に答える者が必ずしも幸福になるのでないことはどうしたことであろう。

自分の過去記事には、TV(新聞やネット情報を含む)を否定する記事がいくつか散見されるのであるが、それは、世間というある種の装置が用意したアフォーダンスに対し知覚しなければよいという論調である。いまは、多様化(ダイバーシティ)構想がもちあがっているので必ずしも日本人であるコードをことさらに守らなくてもよい時代が到来している、にも関わらず、自分の過去記事では TVを観るなと力説しているのは いささか苦笑を誘う。

つまり、同調を求めているのであるが、世間のコードと縁を切ったのだったら誇張する必要などなにもないのである。その必要があるとするなら、自分自身がまだ古いコードの意図みたいなものに批判を加えようとしているということであるが、それこそくだらないので、ここに、そうしたTVと縁切り宣言をした過去記事からもう1記事掲載するにとどめる。

2018年の3月6日の記事である。
”こだわり”について というタイトルがついている。アフォーダンスに対して自分の振る舞いの特異性を具体的に記している。

無くて七癖とはよく言ったもので
自分も癖には気づかないということは
よくあるものだ。
自分はとくに好き嫌いやこだわりは
ない方である。
少なくともそう思っている。
他人(ひと)があれが嫌だこれは嫌いだ、
といっているのをきくと、
俺はそんなことにはこだわりは持ち合わせていない、などと
心の中でつぶやいたりする
なんでもありでいいじゃんという心構えがあるくらい
自分は自分のことをそう思っていたが、それこそ無くて七癖で
人から指摘されることもしばしばあった。
その度にいつもは馬耳東風を決め込んでいるのだが、
今日はそんなところに目をつけてみようと思う。
たとえば、
TVが嫌いだし、インターネットも嫌いである。
自分は スマホはもって歩かないとまではいかないが
たいていは電源OFFである。
必要に迫られたときに、ONにしようと思っているのだが
ONにしようとすると、スマホの起動まで時間がかかり。。。
その時間が面倒くさくて たいていやめてしまう。
さすがに時代の波には勝てずオフのままでは支障があり、社用の携帯はガラケーにしているのだが
次の更新ではスマホになると会社から通達があり、残念に思っている
実は、スマホもガラケーと同じくらい電池はもつのだきいた。
スマホの方が電池の持ちが悪いというのは性能の差でなく使い方によってそういうことになっていると家電量販店で説明をうけた
そうなのかなと、実験してみたのだが、
残念ながら、やはりガラケーの方が電池の持ちが良いと言わざるを得ない
通知機能だのなんだので
操作はしなくてもデフォルトで電池は減っていくのがスマホの宿命で、ガラケーよりも性能の良い電池が必要なようだ。
まあ、実情はそんなところなのだがスマホだって放置すれば二日は平気で電池はもつにはもつ。
ガラケーは3日ほど平気である。
充電が切れるという恐怖をうざいと感じ、
そんな実験をやってみたのだが、
それはともかくもスマホを触らないだけで、
ぼーっと一息つける時間が増えたと自分では思う。

一日のうちで使う時間が限っているので
アプリもだいぶ厳選してはいる。
たとえばニュースアプリについて
前はしこたま入れてチェックしたりした時期もあるが、
今では削除してしまった。
韓国芸能の情報アプリはなぜか削除していなかったりする。
このあたりにこだわりがあるのかしらんと思う。
自分はIT技術者のくせに
情報収集能力については弱い。
かなりな情弱である。
ビジネスマンなのだから ビジネス本に目を通せとか
新聞くらい読めといわれても
つまらなくて仕方がない。
まあ、自分は、ビジネスマンといえ
世間体のため仕方なくそういうフリをしているだけという自覚があるので、一般のビジネスマンと違うとは思う。
情弱については、一般にそういう話についていけないと変人だと思われたりして、
取引相手を不安にさせる要素を作らないためというのが実情で、マナーみたいな要素であろうことは理解はしている。
そういった意味では、自分はかなり視野が狭いといわざるを得ないが
実はわざと、狭くしている機雷もあるのである。
所謂、情報の断捨離という奴だ。
断捨離といえば、
普段は夕飯は食べないようにしている。
これは、グルメ情報にいちいち踊らされることに
嫌気が差したことに端を発する。

過渡期には、肉を食べないようにしたのだが
野菜だけにする方がかえって面倒くさく
いっそのこと食べないと決め込んだ方が楽に思えたので
そうしている。
 朝はパンを食べ
 昼はご飯を食べ
 夜は食べない(飲み会を除く)
という食生活で標準体重まであと一息まで減量できている

これも過渡期には
腹が減って仕方なく
コンビニで野菜ジュースを買って飲んだりしたのだが
いまではそういうこともなくなった。

それでコンビニによるのが
ルール違反みたいに思えてしまったのか
コンビニも避けるようになった。
コンビニの商品は24-365の業態コストを
上乗せしなければならないはずなので、そもそも高い。

コンビニ限定商品もよくよく考えてみれば
自分にとって魅力あふれる商品ともいえず、買わないに越したことはない。
そもそも物は極力買わないで過ごしたほうがいいのであれば
そういうことなのだ。
コンビニはおろか商品が陳列してあるところは忌避した方がよい
と思っている。

このあたりの反応も やや極端で
こだわりがある(ここまでいくと こだわりというより偏屈だ)
といえる。
ファーストフード店も同じ理由で
人から指定される以外はいかない
そうしたことから
グルメ(美食家)と間違えられることもあるが
そんなことはない。
ダイエットに関する商品は買わない
というか商品自体あまり買わないのだから
その一環なのだが、ダイエットなんてするからリバウンドするのだ
と思っている。
同様 ビタミン剤などの栄養補助もしない。
ほんとうに体によいのは
いろんなものをまんべんなく食すことである
でもこの理想を成立させるのは難しいからそういった商品がある
しかし、自分の財力で手に入るそのくらいの値段で栄養補助に
本当に効き目や効能がある商品というのはない。
効果がないのに、買うのはもったいないのだ。
だから買わない。
かなり吝嗇に思える感じだが、
元来は浪費家の性質だと思う。
ゆえにお金は最低限しか持って歩かないようにしている

昼は社食があるので 500円で足りる 
夜は食べないので
だいたい月の食費はたかが知れている
たいていの飲み会には参加しない
飲まないと出来ない話というのがあるのであろう
それは観方を変えれば、酒の力で口が滑っているだけだ。
そして大抵は人の悪口を言う場になったりする
それは人間の性でもあると思っている
仮想敵国があると話がシンプルでわかりやすくもなる
ビジネス上 交流があった方が円滑にいくのであろうが
円滑にやる必要なんてないとさえ思っているので
いかないということもあるが
ぶっちゃけ話をしても
相手に弱みを握られるだけであろうからいかないという
方が的を得た云い方かもしれない。
とにかく自分の性格上 酒を飲んでもストレス解消にならぬ
接待は仕方ない必要悪として行くがそれ以外は極力いかないのである。
ともかくも 酒は友人とコミュニケーションを円滑にするためというが
友人との交わりが酒を飲むということだけならつまらない。
と最近は思えてきた。
スポーツが好きなので、ゴルフにいったり
スキーにいったりしたい。
酒が嫌いかといえばそんなこともない
むしろ居酒屋の雰囲気が大好きだったりもする
そういうことからするとチェーンの居酒屋で飲むというのも
いささか興ざめである。
飲む機会というのは有限であるから
普段食べないものとか
いかない場所を選定したい
ここはあえてこだわりたいところではある。
こだわりといえば
朝のパンは おいしいパンやを探して買ったりしている
コーヒーも自分で豆を引いて淹れている(ハンドドリップ)
土曜日は美術館にいき
まえもって調べた喫茶店に入る(このときはネットを使ったりする)
日曜日はたいていは温泉にいる
そんなルーチーンができてきたのだ。
昔から、仕事が苦手であるので稼げない
得意になろうと頑張ったが苦手なものは仕方ない。
だから 少ない年収でも生きていける生き方を探した
その結果がこうなったと思っているが
吝嗇な友人からはまだまだ無駄が多いと指摘される始末である。
食へのこだわりが捨てきれないという指摘であった
パン屋探しも無駄だという。
それをとったら自分じゃなくなる気がして
無駄だと思われてもおいしいパンを求めてしまう。
今年から、これに旅行を加えようとしている
年に4回くらいは海外にいきたいと思っている。
4月はまた台湾に行く計画を立てている。
海外というのは かつては億劫であった。
日本でもまだまだいっていない場所があるのに
などと思っていたのだ
それとは反対に
フランスにあこがれをもっていていた。
(とにかくヨーロッパに盲目的に憧れをもっているのだ
これもこだわりといえなくもない)
思い切って海外旅行にいってみると 思いのほか楽しく
はまってしまったのだ。
ビジネスの話をされると息が詰まる
で、おそらく思考がバイアスを受けてしまっているのだろう
感覚的で申し訳ないが
日本とアメリカは終わったくらいに思っている。
なぜかといえば少子化で労働力が足りないからだ
これからは外国人の人に働いてもらうしか手がない
資本主義なんて所詮は
どっかを植民地にしないと食っていけない仕組みなのだ
それもグローバル時代には覚束ないのではないだろうか
歴史が繰り返されるということであれば
国家は発展と衰退を繰り返す
企業だって永続させるのは所詮無理だ。
ビジネス本は新たな時代がきたと叫ぶ
そうした中でこれからは価値観の変革がくると説く
そこになにか無理やり感を感じてしまう。
なぜならそういう新しい時代なのに
ほとんどが日本またはアメリカがどうやって乗り越えるのか
を説く。
それがうざいと感じてしまう
ゆえに無理やり存続させる必要などないとおもってしまうのだ。
ちょっと話題がそれるが日本が北朝鮮のことを揶揄したりする
あの国は狂っているというが、昔の日本だって相当狂っていたように思う。
狂った原因も一緒で、ブロック経済をしかれて困ったからだ。
今後、いつ日本がそれをされないとも限らない。
国という擬態も実質消滅する時代がくる
政治も経済もそれを基礎に置かないと判断が違うのではと感じる。
そういうことからもニュースは観ないのである。
こだわりというわけではないが、毛嫌いといっていいほど
とにかく政治経済が嫌いなのであるからして
ゆえにニュースも嫌いなどだ。
あと広告も嫌いだからTVもネットもみない。
そういった媒体(メディア)は購買力を促進されるようにできている
またこれをすべて取り除いても実はセンスがなく
つまらないものであるかもしれない。
こういった具合に
情報嫌いな そんな自分だけれど それには経緯がある
意識高い系になろうとした時期もあるにはあったのだ。
日本の国を悪くいえる立場では決してないのだ。
まぁ羹に懲りて膾を吹いているがごとく
情報は遮断しているとそういうわけである。
お! こうしてみると
 ビジネス本
 飲み会
 ニュース
 コンビニ
 ファーストフード
 広告
 TV
などなど
嫌いなものは結構出てきた。

嫌いなものが多いと損をする
などと言っていたが
こうなると好きなものを数えたくなってくる
・美術館
・喫茶店
・ジャズ
以上である

こうした ”こだわり”のベースには
 ・反戦への思い
 ・”政治を論ずる中年オヤジ”への幼少期からの嫌悪感
 ・エリート社会や自己啓発へのやっかみや恨み
がある。

この次のステージにそろそろ行こうと思う。
反戦は変えなくていいだろう・・・
もう自分もすっかり中年なのであるから
嫌悪感をもっても仕方ない
(自分が嫌悪するような態度をとらなければどうでもいい)
やっかみや恨みからは何も生まれないので、建設的な話を書いていこうと思う。

言葉はいわずもがな ひとつのコードである。
しかしながら、その言葉を媒介にして、言外にいろんなアフォーダンスがある。そのアフォーダンスに対してやや神経質に対応するといった習慣が身についてきたと思う。
それは簡単に言えば、世間知らずで偏屈に映ることもあるかもしれない。
世間のコードに合わせるほうがずっと楽な面もあるのかもしれないが、
衣食住に関して基本的な態度を自分の言葉で決め、精進していきたいと思う。

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