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時間について雑考(書きかけ)

物理学から

アリストテレスは時間は変化の尺度の単位なのである。
尺度であるが、アインシュタイン以来 絶対的な物差しにはならない。
観測者の速度や重力場の影響を受ける相対的なものである。
量子力学では、ご多分にもれずこれも確率的になってしまう。

これは時間に対する感覚をUpdateしなくてはよくわからない。
たとえば、量子もつれは粒子が瞬時に影響しあう非局在性をもつ。
2重スリット実験では、光や電子はスリットを同時に通過してスクリーンに干渉パターンをつくる。粒子が2つの異なる経路を同時に通過してるような感じだ。

同時に・・・高速道路の料金所ならば2重に課金されることになってしまう。

ところが、観測者がいるなら、粒子は一つの経路を選択して重ね合わせは崩壊する。つまり課金ということは観測されているわけだから2重には課金されない。。。

 量子トンネル効果というのもある。古典物理学では、粒子はエネルギー障壁の高さを超えないと通り抜けられない。しかし量子力学では重ね合わせがこの障壁を超えるのである。
この重ね合わせを受け入れるには、人間の認識能力がまだ十分でなく、さまざまな例え話で辻褄をあわせないといけない。多世界解釈は、すべての量子状態が実際に存在しているとする。つまり、同じ車体が料金所のゲートAを通る状態とゲートBを通る状態が同時に両方存在している。実際に課金されるまではその通りの状態である。
 そして、これは時間的な経路でも同じことであるという。光子が異なる長さの経路を同時に進むような実験でそれは計測される。これは量子遅延選実験では、観測されるまではビームスプリッターにより分けられた光は実際に2つの経路を進むと考えられる。

粒子の振る舞いをそのまま、実生活や意識に持ってくることはできない。
と私見では思うのである。ここで、哲学者の意見にも耳を傾けてみよう。

哲学から

 アウグスティヌスは、過去も未来も現在も実際に存在するという
過去は記憶として現在に存在し、未来は期待として現在に存在し、現在は認識として存在する。
と「告白」という著作にある。
そして、アウグスティヌスは時間の本質は心の働きに深く関わっている、
時間を測るのは心であり、時間そのものは存在しないとしている。

フッサールは、
保持(retention):  現在の瞬間に直前の過去の痕跡を保持する、
保続 (protensstion):未来に対する予期、期待
現在(primal impression) : 現在の瞬間を直接に経験する
といった意識のレイヤーで捉えてはどうかと「内的時間意識の現象学」で提唱している。

フッサールの弟子のハイデガーは、「存在と時間」の中で
人間の存在は時間的な存在であり、時間は人間の存在のあり方そのものであるとした。つまり、時間とは、存在のentwurf (投企)であると捉えて、過去、現在、未来が一つの統一された構造を形成すると説明している。
つまり、ハイデガーにとっては、時間は単なる客観的な測定対象ではなくて人間の存在のあり方そのものであるという。

ベルグソンは、時間の主観的な体験を持続という概念で説明した。物理的な時間は抽象的な概念に過ぎず、実際の経験に基づく時間は連続した流れであり、個々の瞬間は切り離されることなくつながっているとした。ベルグソンの音楽のたとえがわかりやすいが、ひとつひとつの音の存在と、曲として音がつながっているときには別の存在である。時間は連続的な変化の流れであるから、個々の瞬間を微分的に取り出すことはできないといった。


量子力学も哲学も時間は、複雑で多面的なものであることを示唆しており、
量子力学では時間は重ね合わせや非局在性を通じて理解され哲学では主観的な経験や意識の流れとして理解される。つまり、量子力学は時間を客観的な物理現象として探求し、確率的で非決定的な性質を持つとし、一方、哲学は時間を主観的でかつ人間の存在の根本的な構造として考察しているのである。

さて、
時間を大切に という意見なり、標語なりをきくことがある。
学校の先生や親や指導者に言われてきたことである。

このことについて、私なりに今日は決着を試みたい。
時間というものは、哲学的にみて、主観的なものである。物理学からみても相対的なものであるが、それは量子系で言えることで、一般には成り立たないので、ここでは物理学の時間論はいったん脇に置こう。
大切にするというのは、つまり意識の問題である。
大切にするということは、節約することであると断定するなら、
フッサールでいうところの意識の流れの層を深く理解して、過去の経験を大事にして現在に活かし、いまここで起きたことを豊かに感動を持って受取り、未来に向けて意味のある行動を起こすことが重要ということであろうし、ハイデガーにしてみれば、死ぬということを意識して、今何をすべきか考えろということであろう。ベルグソンにしてみたところで、純粋な記憶の流れの中で豊かに瞬間を感じ取り、生命の喜びとして享受せよということにほかならない。

だが、悟らずして、そんなことは可能であろうか。

つまりは、仏教的に悟れということではないだろうか。

ここで、ふたたび、量子力学を持ち込んでみたいのだが、
量子力学を直接意識作用に当てはめて乱暴な理論で商売に悪用する人たちがいるが、私はそういうものではないことを明らかにしておく。
粒子ひとつの振る舞いを簡単に群の理論に応用できないからであるし、
こんなことを論じたとて、意識が変わるわけではなかろう。
意識が変わるきっかけになるのかもしれないが、それはそれなのである。

まずは、仏教の概念から説明すると
すべてのものは、独立して存在してはいない。ほかのものと相互に依存し合って存在し、本質的には空である。だから時間も物質もおしなべて空だ。
縁起もこの相互依存性から起きる。すべては縁起=原因があり、それが元で結果が生じる、それが業(カルマ)である。縁起の法則は無限に続く。というのは業がまた縁起となって、その次の業を生むからである。
この無限の輪廻によってこの世は構成される。
それを超越しないと、時間についても前の業に引きづられてしまう、

量子もつれは、その縁起を見事に表現していると言えそうだが、それもまた
人間の意識や捉え方の一部に過ぎないように思われる。
物質・反物質のことを指しているのかもしれないし、観測の結果が高速を超えて同定するということは縁起とは無関係な概念のように思われるが、無理やり結びつけてみてもどうせ論旨の破綻がみえる。

つまり、この雑考では、量子力学を持ち込んでみても、(まだ)決着がつかないように思われるので、この辺で筆を置くが、階(きざはし)として残しておこうと思う。
ただ、量子力学をスピリチュアルに応用するような輩に一言付け加えてから筆を置こう。

 まずは、量子もつれは量子系(ミクロな世界)でのみ成り立つ マクロではニュートン力学に従う。なので、これを直接にあてはめることはできない。そこから因果関係を説明するのは科学的ではない。
 量子もつれを魂のつながりなどとするアナロジーは荒唐無稽で、非科学的で検証ができないし、理解とは遠く離れている。
科学の過去を大事にして、活かしてほしいと強く願う。

自分の立場が明らかになったところで、どうしてこんな疑問を持ち出してみたのか。追記しておこう。

ひとつは、生成AIの発達が、技術の進歩、とりわけ技術的イノベーションが加速したのではないかと叫ばれて、時間に対する切迫感を増している。
変化についていかなければ!というところであろう。もちろん、変化にはついていかないと(ある意味)いけない。
しかし、過去50年間で、技術的イノベーションのピークを迎えたのはわずかというのが実情らしい。バーツラフ・シュミルは、著書「Invention and Innovation」の中でそう語る。

イノベーションが加速していると誤解するのも無理はない
・不確実性の時代だからインパクトがわかりにくい
・指数的関数的の誤解:ムーアの法則はコンピュータの成長を指すもので、
 製品全体の成長を指すものではない。
・イノベーションの推進に対する煽り: 技術のインパクトを誇張しすぎ
・検証の欠如:イノベーションの加速を裏付けるデータが実はほとんどない
ということが挙げられる。

つまり、イノベーションを検証するものがない、というまさにスピの人を退けたのと同じ理由で イノベーションは加速しているかどうかは不明瞭である。
失敗例はキリがない。DDTの健康被害、超音速旅客機は過剰なコストを上回るメリットがなかった。
原子力発電についてはなんだか覚束ない。沈黙の春みたいな空気が蔓延しているが、私自身30年前、石油は確実に枯渇するといわれた、しかしいまだに産出されている(埋蔵量が増えたわけではなく石油を掘削する効率が上がった??) 市場を独占すると期待されていたが、安全面を考慮して、普及は見送られている。
窒素固定作物、いつか書いたが、日本茶の旨さは実は数値化できる。それは窒素の含有量だ。それはワイン評論家がなんと言おうが、ワインの質は降水量と連関するのと同じくである。それで作物は窒素が重要で窒素を固定できれば、よい作物が(肥料に関係なく)できる。その技術はまだ実現されていないのである。
このように、歓迎されたのに失敗といわれるインベンションや、主流となるはずが、当てが外れているものや、期待しているのにちっとも実現されない技術もあり、捉え方はさまざまで、各現象に固有の理由はもちろんあるだろうが、ひとへに、おしなべて、要は”急ぎすぎ”なのではないだろうか。

まずは、ドラッガーがイノベーションの連続が市場に求められていると声高に叫んだ。(もう古いのかもしれない。)革新につぐ革新こそが競争力を煽って、その方法を論じた。
それをきいたときに なんだか息苦しさを覚えたのだ。

けれども、世の中の頭のいい人たちは、それを実践し、成し遂げた。
(ように 振る舞った) これこれこうだから、革新的なのだ!投資家よ、金を出せとプレゼンし、技術力のある会社を高額で買い漁り、迅速なる”技術革新”を実現して世の中に影響を与えた。。。
その結果は 仏教でいうところの無常を裏付けたにすぎない。

変化したかのようにみせて(みせる技術と手段はなるほど豊富になったのかもしれない)その実、急いだところで、なにも変わってなかったのだ。
そして、変わったからとて、また次のものがなんの成果も伴わず現れるだけなのである。 一部の人がタワマンに住むようになって、まった去っていくだけで 世の中は実は何も便利になっておらず、人生劇場だけが無常だ。

実を伴わない改革は、やめにして、足元を照らしながらやるならきちんとやることが必要だが、いまの資本主義がそれを許さないのであろう。

ますます、持続可能な実践が求められるが、この持続可能ということも
技術革新同様きな臭いものを感じるが、それは錯覚であることを祈りたい。

でもそれは、所詮 人知を超えた概念(外側の概念)を持ち込まないと解決できない類(たぐい)であることは間違えのないことのように、いまは思えるのである。


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