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富士山の日

山梨県河口湖町と静岡県が、語呂合わせにより富士山の日を制定。

永井荷風は、散歩をすることで、東京の夕陽(せきよう)を思い、”この都会の美観と夕陽との関係甚だ浅からざる事を知った”という。そしてさらに、”夕陽の美と共に合わせて語るべきは市中より見る富士山の遠景である”としている。(日和下駄)
もう少し引用しよう

われらの意味する愛国主義は、郷土の美を永遠に保護し、国語の純化洗練に力むる事を以て第一の義務なりと考うるのである。今や東京市の風景全く破壊せられんとしつつあるの時、われらは世人のこの首都と富嶽との関係を軽視せざらん事を希うて止まない。安永頃の俳書『名所方角集』に富士眺望と題して 名月や富士見ゆるかと駿河町  素竜
半分は江戸のものなり不尽の雪  立志
富士を見て忘れんとしたり大晦日  宝馬

さて、荷風が夕景で挙げたる2つの場所の一つに目黒の行人坂がある。
目黒には2つの富士がある。人造富士である。こうした人造富士のルーツは享保年間に求められる。なんでも、釈迦入滅から56億7千万年後に衆生救済があると仏教では教えられるが、これを富士の霊力によって短縮しようとする試みである。普通に考えて、なんという浅知恵なのかと嘆息するが、さらに霊峰は女人禁制である。これも人口の富士塚なら、差し障りあるまいという、これまた短絡。これも大いに信者を増やした。インスタントの良さは、実は古来からで、浅間の祭り神の木花開耶姫は、大日如来の垂迹であるという考えが広がり、それが富士講にも影響を与えてきたという収斂ぶり、いろんなものをぶち込んできたなぁという印象なのである。なんとも”あさま”しいものかな。

安藤広重が、目黒新富士を版画に残している。これは文政2年にできたもので、目黒三田(今の中目黒あたり)の近藤重蔵の屋敷跡に見える。もっとも、これを新富士と呼ぶのは、元富士が上目黒にあることからであるという。毀誉褒貶激しい近藤重蔵は紅葉山文庫の改築の際に、水野忠成と揉め左遷となった。そも紅葉山文庫とは富士見の亭にあった徳川家康の書庫を整理するために建てられたものである。好学だった家康は金沢文庫などの蔵書を富士見文庫に収めたりもしていたが、名前としては富士山をみながら勉学に励んだのである。
この左遷の際の留守中に近藤は自らの身代わりとして築造させたのが新富士であったのである。
主人留守中に隣家の百姓半之助一家がそば屋を開業しあたった。近藤富士の借景に蕎麦をかけ合わせたのがよかったのである。しかし調子に乗った半之助は両家の垣根を取り払い、さも自家のものとして近藤富士を見世物にした。そして小心から、重蔵の左遷先からの帰還の際にごろつきに警護させる愚行におよび、これが重蔵の息子の富蔵の勘に障り、半之助一家は斬り殺されたのである。富蔵は八丈島に島流しにされるが、そこで父譲りの勉学を発揮した。八丈実記を記し、柳田国男の目に止まり、民俗学の貴重な資料となったのである。
血塗りの新富士も昭和32年には取り壊されたという(種村季弘「江戸東京奇想徘徊記」)

このように、急ごしらえのインスタントな名所古蹟について荷風は次のように書く。

名所古蹟は何処に限らず行って見れば大抵こんなものかと思うようなつまらぬものである。唯その処まで尋ね到る間の道筋や周囲の光景及びそれに附随する感情等によって他日話の種となすに足るべき興味が繋がれるのである。

口実が好日を呼び、それが庶民のイベントになるというその風情を、雑草という通底に流れる庶民性を高らかに記す日和下駄である。
思えば、根拠もなく上滑りで売れる流行り物にたかる愚民のイベントも今日と同じで、そば富士に集(たか)るインバウンドも滑稽ではありつつ、なおも何かがあるものかなと思うのである。

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<来年の宿題>
・東京の富士見
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