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アメ横の日

1946年10月11日、戦争の引揚者たちが東京・上野駅〜御徒町駅間の線路高架下に露店を開設。

 なんで開設日が記録されているのか。露店なんていうが闇市のはじまりに違いない。もはや闇なんていってられない時代だったのだ。昭和20年10月11日、ドイツ語教師の亀尾英四郎は栄養失調で死んだ。闇買いをしなかったからだ。同じ理由で2年後の同じ10月11日、地裁刑事の山口良忠判事が餓死した。
 アメ横の名の由来は、米軍のPXからの横流し物資が売られてたからだが、実はその前から”アメヤ横丁”とよばれていた。芋飴が全盛だったのだ。
飴は人をひきつける麻薬のような役割をしたりする。物資が少なくても飴は売れるのである。事実、千葉で採れた芋でつくった水飴、ズルチンやサッカリンを混ぜた小豆を使った「和菓子」は飛ぶように売れた。

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 闇市を仕切ったのは当然テキヤである。新宿では東口は尾津組が新宿マーケットをOPEN、南口には和田マーケット、西口は民衆市場を安田組が仕切る。池袋西口には関口組が陣取り、銀座は上田組、新橋は松田組が「鑑札」を割り振る。浅草は芝山組だ。このようにいまの歓楽街は闇市から始まっている。例外はあまりないのだ。上野のアメ横は、飯島一家、西尾組、血桜団、破れ傘一家がそれぞれの区画を仕切る。

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 当時の日本の警察も組織の力を失っていたのだ。こうなると公式も闇もないのである。カーバイトの灯りの暗いところで売るから闇市なのだ。新宿から光を!のスローガンで露天商が活躍して闇市を作っていった。
 そして闇市は解放区であった。つまり治外法権である。禁制品を売っても取り締まられない。軍需工場の失業者、特攻くずれ、海外からの引揚者が闇市に活路を見出してなだれ込む。どうせ捨てた命。。。食うか食われるか、義理を欠いても恥をかいても金は儲けるといった具合に、知恵を絞った生き残りをかけた戦いなのである。
 GHQが取締に乗り出す昭和26年11月30日、新宿から露店が消えた。大正からの40年の歴史に幕を下ろす。池袋も渋谷も銀座も同様であった。上野広小路駅の露店は取り払われたものの、アメヤ横丁はマーケット型の建物の中だったから露店ではなかったので、動かされることなく残った。この最後に残った闇市では、ライター、万年筆、電気製品、ダイヤ、時計、そしてドルも売買された。とくに昭和31年〜32年にかけて大きくドルが売買され、大いに儲けが上がり、その商売の面白さに惹かれますます出店が相次ぐ。大量の米軍払い下げ物資が流れ込み、朝鮮系は日本の法規制をかいくぐる工夫とルートをもち、華僑系からは密輸入品、PXからの横流れ品を仕入れることができた。洋酒、缶詰、高級服地、良質の小麦粉など、上野にいけば何でも買えた。また、上野に持ち込めば何でも売れた。そんな場所になっていったのである。このときに、アメ屋がアメリカ屋になったのである。
 楽しい趣味も5時間もすれば疲れることもあろうが、商売は飛ぶように売れていくのであれば何時間でも飽きない。(当時のアメ横の標準営業時間は8時から22時)しかしながら、生き馬の目を抜く場所でもある。洋酒のジョニーウォーカーは当時高級スコッチの代名詞、なかなか手に入らないものであれば取引すれば儲けは大きい。横浜での取引に応じて麻袋に入った商品と多額の現金とを交換し、戻ってくるとなんと中身はビールだったみたいなこともあるのである。簡単に取り戻せる金ではないのだ。警察にも相談できない。密輸に決まっているからである。
 当時の税関もアメ横で行われている”密輸”(正真正銘の舶来品が並べられていながら、税金は支払われていない)に、指を咥えて見ているだけではなかったが、取り締まる術も知識もなかった。そこで、税関はアメ横を特別区に指定し、申告さえすれば取引ルートには目をつぶろうという取引を申し出る。アメ横もそれを呑んだ。しかし、恐ろしい物量に税関は匙を投げ、税関印紙を貼る作業をアメ横に委託した。特例印紙を手に入れたアメ横は、舶来品ロンダリングの場になっていく、高島屋、三越など有名デパートは舶来品をアメ横から仕入れる。雪印も明治乳業も舶来品のバターをアメ横から仕入れる。急成長する日本の市場に舶来品を正式に輸入する能力が追いつかず、なにより物欲はそれより早く上昇していく、アメ横はなくてはならない存在であった。1964年に行われた東京オリンピックの金メダルはレバノンルートの金が使われていたが、実は仕入先がアメ横だったと云われている。でなければ、上質の金を集める能力など、まだ日本の”公式な経済力”は持ち合わせてなかったのだという。
 昭和45年に外国製品輸入が自由化されると、こうしたアメ横の特権を誰もが持てるようになった。そして、切った張ったの商売戦争を繰り返してきたアメ横一世から2代目が台頭してきて商いの仕方も変わってくる。アメ横も変革の時代を迎えたのである。陰りがすっかり濃くなり、代替わり争いも激化し、再開発の圧力が膨らんだ。昭和56年にアメ横は火災に見舞われた。焼け跡のあとに建てられたのが、アメ横センタービルである。20年来ビル化が叫ばれてきたが、先代が譲らなかったのだが、火災によって叶ってしまった。故意か偶然かはご想像に任せよう。

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ここで、過去ブログを紹介しようと思う。2014年10月11日の記事である。

早いもので、あと二ヶ月で年末だ。
年々年の瀬が早く感じられることは
さんざん書き散らしたが、
年末のせわしさの風情は好きである。

年末の風物詩のアメ横の風景は
ある種郷愁を伴って情景が浮かんでくる

せり出したダンボールや
積みあがる正月向けの商品
昆布の香りや、吊るした鮭
並べられたマグロのサクや
ルビー色に光るイクラと

おじさん達の赤ら顔
包みを抱えるおばさん達の早歩き
ビルの壁にみえる錆びた配管の脇に

靴を磨くひとの姿
古めかしい喫茶店の前で
占い師が座りじっと前を見つめていたりする。

その周りでは、天津甘栗の匂いが立ち込め
果物売りの独特な売り声がこだましている。

東京の東西で
西日本から上京する人は
山の手線より西に
東日本から来る人は東に住むことが多いと
誰かからきいた

さもありなん、
学生時代、静岡県から上京してきた私は
東横線沿線の小さいアパート暮らしであった。

年末年始は、
実は稼ぎどきだと、バイトに精を出して

正月は帰らない親不孝ものだったわけだが、
いわゆる東京の東側の風景に
西側との差を新鮮さとともに感じた。


魔がときトワイライト、
バイト帰りの疲れともに
立ち寄ったアメ横の情景は
歳の変わり目の隙間をみせながら
ふと、心に風を吹かせた。

訛り懐かし停車場にほど近い
商店街で感じる人々の物語

冬の深い闇夜に
東北の人々の寂しさと温かさと
そして、逞しさを感じた。

そんなアメ横は今日が開店記念日だそうだ。

上京してきた様々な
人間模様を感じながら
地域活性の命題を考えてしまう。
都会と地方を結ぶ線と溝
そこには人生の隙間風を
感じる。

まだ、二ヶ月ある今年を
どのように終わりをむかけようか
じっくりと考えてみようと思う。

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<来年の宿題>
・アメ横 モンブラン戦争
・アメ横とゴルフクラブ☆
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●表紙の画像
年末の買い物で賑わうアメ横(画像はお借りしました)
どういうわけか毎年、栗きんとんだけはアメ横で買っていた。
最近は食べもしなくなってしまった。かまぼこも毎年余るので買わない。

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