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吠えてはいけない犬

犬というと、人間にとって身近は生き物だけに
賛否両方の表現で犬が使われる。
おおむね 身近であると親近感がわいて侮蔑の意味のほうが
多いような印象もある。
たとえば 吠える犬ほど咬まない

Chien qui aboie ne mord pas

Celui qui crie beaucoup n'est pas le plus à craindre というほどの意味で
(このフランス語は反語的に訳す) 大きいことを言う人ほど、勇気はないという意味である。

 前はよく見かけたものである。
大言壮語なやつは本当に肝が座ってないやつが多かったが
いまはそれほど見かけなくなったのはコンプライアンスが効果を発揮しているだろうか。(ただし政治家などの中に例外をみることが いまだにある)

C'est un beau chien s'il voulait mordre

は、直訳だと 咬みたい犬は美しい犬だ みたいになるのだが
これも反語的に解釈して
C'est quelqu'un qui paraît courageux mais ne l'est pas という意味で
勇気がありそうにみえるが実際には口ほどにもない人を指す。

自分がそうならないように心がけよう。
大きなことは云わなければいいのだ。

なんか 昔なら ”憎めないやつ”ともとれる2つの表現をみてきたが、

un caractère de chien

これは、ややきつい表現で 犬の性格が直訳だが意味は
En parlant d'une chose pénible, excessive ou d'un être détestable
泥棒とか嫌われ者に使う表現である。
もっとも、昔は野良犬がそこらじゅうにいた。
保健所が狩りを行うので、いまでは滅多に野良はみることもない。

実は 猫派か犬派という表現がある、もちろん両方飼っている人も多くいるから、そんなに目くじらたてるほどのこともなく、自分はといえば、ペットは飼わない主義である。どちらかといえば猫のほうが、なんて思っている。
フランス語にはつぎのような表現もある

Qui m'aime aime mon chien.

私を好きな人は私の犬も好き みたいなことである。
Quand on aime quelqu'un, on aime tout ce qui lui appartient

あばたもえくぼ みたいになるのだろうか。
自分も 愛する人が犬を飼っていたら、主義はすぐに捨てて、一気に犬好きになるものかもしれない。

さて、今日はつぎの記事を引用しよう

2010年の12月30日の記事である。

自己啓発本は人気がある
でもこの手の本を手にすることに自分としては、抵抗がある。
自己啓発本のほとんどが
大概は潜在能力が人間にはあり、それを呼び覚ますことで、能力が向上できる と書いてある
だから何だ?
と思ってしまう
勝間和代のようなひとからみれば、負け犬の遠吠え的な発言に思えるかもしれない
というか、能力が低い自分が何を書こうが まさにそのとおりであろう
ただ私的には、潜在能力は環境やその人の興味によって引っ張り出した方が自然であると思うし、
それに反してマニュアル的に改革していく手法を実践するときに、
そこでもやはり 能力が問われるジレンマを解消できない
という偏見をもってしまう

畢竟 そうした殻を破るにも能力が必要になる 
という運命論的な矛盾を払拭できないであろうと思ってしまうのである
能力を上げても問題解決能力が必ずしも上がるわけではないし、逆に能力の比較的低い人が 
ねばり強い努力で問題解決していく姿を
何度も見てきているのでそういった偏見が形成されてしまったのである

だから何だと 因縁をつけてしまうには
能力主義に人種差別的な臭いをかんじてしまうからである
能力向上はそれができない人との差別化を意図していて、
能力を身につけることによって、
つまりは人よりも優位にたとうとしている論理が鼻持ちならないのである
その論理は学歴社会を助長しているように思えるし、
自己啓発本も同じ論理で敗者復活戦に巻き込む 
出版社の広告戦略に過ぎないように思えてしまうのである

今の能力のままでも できることから始めていこうという 
来年に向けて抱負を書いたにすぎないとして、能力主義の貴兄方々にご容赦願いたい    

どうやら、自己啓発という言葉への嫌悪感を書いているようだ。
自己啓発本に対して”だからなんだ”と評しているが
この私が書いた引用した記事こそ ”だからなんだ” ともいえる。

これからは、
二極化が進むのである。いわゆるマックジョブといわれる長時間労働を余儀なくされる8割と、2割のクリエイティブクラスの人に分かれていく。
これは事実であろうと思われる。
いまは クリエイティブクラスの人でも、だんだんと搾取される側になっていくことが予想される。
そして、肝心なことは、ちょっとくらい自己啓発しても、
複雑化 高度化がますます進み、逆転はおそらく無理なのである。

もっというと、(これは言ってはいけないとされている)が、生得的な能力の差は教育では、ほとんど、ひっくり返らない。(ブラック・スワンは かなりマレだ)

現実がこのとおりだとして、今かけることも 10年前とたいして変わっていない。せめて心根として富ではない新しい価値や喜びを自分で探して楽しむしかないのだ。

それは まさしく 負け犬の遠吠えなのである。

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