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【空堀のまち】まちの範囲

空堀の基本情報
ちなみに、厳しい地元の方からの指摘によると、発音は、「から(↑)ほり」じゃなくて「から(↓)ほり」である。「路地」も「ろじ」じゃなくて「ろぉじ」と言うように。。。


「空堀」の由来

「空堀(からほり)」とは、豊臣秀吉が大阪城築城の際に南面を防御するために構えた三の丸の堀である「南惣構堀」に当たり、水を入れない空の堀であったことから由来している

大阪冬の陣の後、堀を埋められたこともあり、かつての三の丸の堀がどこか、現在もはっきりと分かっていないが、現在の空堀商店街周辺ではないかと推定されている程度である

江戸時代は、武家地と瓦の土取場として宅地開発され、瓦土取場の跡地は現在も不思議な窪地として存在している

その後、工場と住まいとしての長屋(路地の裏長屋に従業員が暮らす)のあるまちとして、長屋が数多く建設されていた

奇跡的に戦災を逃れることができ、現在も築約100年をこえる古い建物が残っている

「空堀」の範囲は?

範囲は諸説あるけれど、広い通りやコミュニティの分かれ目、イベントとして歩ける範囲などから

北:長堀通・南:楠木通・東:上町筋・西:松屋町筋の内側(下図)が「からほりまちアート」開催エリアとなった。

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からほりまちアートの成功を受けて、その後、2004年から10年間実施された修景事業である「空堀地区HOPEゾーン協議会」の範囲はからほりまちアート開催エリアにならって決定されたそうである。

上記画像の範囲は、住所では谷町6丁目、谷町7丁目、上本町西、松屋町、瓦屋町となっている。ただし、校区や町会などの範囲から言えば、長堀通の北側にある安堂寺通(安堂寺町)も空堀のコミュニティに属している。

不思議なのは「谷町6丁目」の範囲が異様に広いこと。かつては、それぞれ南空堀町、西賑町、東賑町、田島町、北空堀町などの町名であったが、郵便の改正などで町名ががらりと変えられてしまった、とのこと。昔の地名は町会の名称で残るのみとなっている。

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※商店街に残されている、旧町名の表示板

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※旧町名の情報やまちの歴史のことなど表示板が時々ある

住所表記は「空堀」ではない

御堂筋や堺筋のあたりは昔ながらの地名(道修町、周防町など)が残っているが、残念なことに空堀界隈は「空堀」と冠する地名が失われてしまった。
空堀商店街からさらに東にいくと、天王寺区に入るが、そこに空堀町という住所はあるが、ここで示している空堀とは異なる場所に位置する。

高齢の方は、今でも昔の地名(住所)で話しをされるので、その時は今のどのあたり?今何があるところ?と聞いた方がよい。

最近の雑誌ではこのあたりも「谷六」「谷町」とか称されることが増えた。このごろ、空堀町にも素敵なお店がちょこちょこ増えてきたこともあり、そちらと区別することが紛らわしいこともあるだろう。

最初に説明したエリアを「空堀」と呼ぶことに違和感を感じる友人もいるし、実際「谷町」「谷六」って呼んでる友人もいる。色々な考えは否定できないけど、ほんの少し時代の変化を感じるな~


参考文献

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