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「Youtubeは、このインターネットで、"神様"じゃなくて、"友達"として存在できる一番良い方法」 "対人支援"の現象学的分析 ファッションデザイナー/YouTuber millnaさんの事例④

この記事は、ファッションデザイナー/YouTuber millnaさんのインタビューの分析の第四回である。

ちなみに第三回の記事(↓)はこちら。

さて、今回のテーマは「誠実さ」である。

精神分析にせよ、コーチングにせよ、あらゆる対人支援技法には、その対人支援に特有の倫理観がある。今回は、Youtuberであるmillnaさんの"ギャル"ならではの倫理観について分析していく。 ※1。

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分析テーマ5: 誠実さ


"自分のことしかわからない"

「誠実さ」についての分析を開始するにあたり、まずはmillnaさんが「誠実さ」について語っている箇所をインタビューから引用しよう。

[ブロック1: シンプルに、自分のことしかわからない]
millna (前略)「みんなと合わせたい」だとか、「流行を追っかけたい」っていうのも、なんていうのかな、自分がどう生きたいかっていうアティテュードじゃないですか。「そうなんだよ」っていうのを言いたくて(中略)ま、YouTubeで言います、具体的にYouTubeで言う活動をします。

(中略)

筆者 さっきYouTubeの話が出てきていたと思うんですけど、(動画で語りかけている先は)誰宛なんだろうと思って。
millna あぁー。なるほどなるほど。もうこれは完全にはっきりとあって、昔の私ですね。だから、もう、私は、はっきり、昔の私に対して話しかけているし、逆になんか、それ(=昔の私に対して話しかけていること)を、拾った人くらいに思っています。その、それが「通じた」って言ってくれている人は。なんか、それが誠実さだと思っているし。
筆者 そこ気になっているんですよ、すごく。これが誠実さだって僕も感じているんですけど、それってなんなんでしょうって。
millna
ああー。なんか、シンプルに、自分のことしかわからないじゃないですか、絶対に。だから、自分のことしかわからないのに、自分の話以外絶対にできないし。っていう感じですね。

millnaさんは、<自分のことしかわからない>のだから、<自分の話以外絶対にできない>と語り、<それが誠実さだと思っている>と語る。"誠実"とは「真面目で嘘や偽りがないこと」を表す単語であるから、これは単純に「自分がわからないことを、わかっているかのように言わないこと」が誠実さである、というロジックだろう。

ただ、この語り全体を読むと、millnaさんは「(他人のことについて)わかった」「(自分のメッセージが相手に)通じた」という言葉を安易に使えないらしい、と感じ取れる。millnaさんは、自分のyoutubeを観てくれた人に対しても、「(自分のメッセージが)通じた人」という言葉使いはせず、<「通じた」って言ってくれている人>や<拾った人>という表現を使用する。

この語りに限らないが、インタビュー全体を通して、millnaさんは他人について何かを言及するときには、相手のことを勝手に決めつけず、常に一線を引くスタンスを意識的に取っていた

millnaさんが他人に言及する時に取っているこの"距離感"を明らかにしていくことを、今回の分析の着手点としてみよう。それを通して、millnaさんが、対人関係において、何を"誠実さ"として捉えているのかをみていく。


テーマ5-1. 「このインターネットで、神様じゃなくて、友達として存在する」

まず最初に、millnaさんの"実践"と"倫理観"の接合点の事例として、なぜ自分の意見を発信する時のメディアとしてYoutubeを選ぶのかについての語りを見ていこう。

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 (millnaさんのYouTubeチャンネル。現在217本もの動画が上がっている)


[ブロック2: ギャルの文脈を手渡す]
筆者 ちょっと誘導的な質問になっちゃうかもしれないんですけど、millnaさんのおかげで、なんか、ギャルをやれてる人たちもいるんだろうなと思ってるんですよ
millna あーそれは思いますね。
筆者 なんか、それどう思います?っていう質問
millna あー。なんかめっちゃいいなって思います(笑)。それこそ、私が言ってるギャルは、多分正しいギャルではない説はあるんですけど、だから、逆に、私に憧れて、ギャルをやれてる人はすぐわかる。その、私の文脈がそこにあることは。わかるけどー。なんか、私はそれはめっちゃ良いことだと思ってやっぱり、当然やろうぜって言ってるし、なんか、めちゃハッピーそうやから、良かったーって思ってます
筆者 ちょっと戦略的に意識されてるのかなって思ってたんですけど。(中略)その文脈を受け取ってる方がいらっしゃるんですよね。(中略)なんかどう(受け渡)されてるんだろうなって思って
millna あーYouTubeですね。ふふふふっ。
筆者 YouTube。
millna はい、YouTubeは結構なんかその、いやその結構真剣にYouTubeで。なんでかっていうと、このインターネットで、神様じゃなくて、友達として存在できる一番良い方法なんですよ。Twitterだと、文章だからやっぱり距離が発生しちゃうし、コンテンツになっちゃうと私は思っていて、で、インスタグラムでも、やっぱり神様になっちゃう? フォロワー数が見えやすいしそのUI的に? なっちゃうけどー、YouTubeって、フォロワー数もあんまりよく見えないし、でもなんかその、映像でそのそこに顔があって、でなんかヤッホーって喋り方と、声、顔が見える? から、なんか、一番その、私が人間であることが伝わると思うし、一番その、なんか、神様じゃなくて友人として接することができると思ってるんですね、YouTube。だからYouTubeです。
筆者 (略)millnaさん的に答えにくい質問だと思うんですけど、なんか、どう、相手が受け取ってるんだと思います?
millna あーなんだろう、お会いしたファンの方から言われたのが、『millnaさんを見ていると若い頃の自分を思い出して、「アーッ!」ってなるけど好きです』って言われ方をして、「素直すぎるだろ」って笑ったんですけど(笑)。これが結構、なんていうのかな、友人として存在できた、その結果かなって思ってて、だって神様だと思ってたらこの感覚絶対出てこないじゃないですか。ま、友達じゃなくて、ちょっと後輩みたいな感覚かもしれないけどこれは。多分YouTubeとか見て、そのリアルな、ちょっと痛々しさとかなんかこういうことあったなとか思ったと思うんですよ多分この人は。なんかその感じ? は、多分YouTubeでしかできなかったと思うし、なんかうまくいったっていうか、良かったと思ってます。

ギャルの文脈を手渡す

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まず、<私に憧れて、ギャルをやれてる人はすぐわかる>に注目しよう。第一回で分析してきたように、millnaさんは「ギャル」を独特の定義で捉えており、millnaさんにとってのギャルとは「明るくなくて、どっちかっていうと病んでるけど、一切それを表に出さない、それでもウチらは明るく生きようとしている人たちのことであった。それゆえ、millnaさんが、millnaさんに憧れてギャルをやれてる人を見ると、<私の文脈がそこにあること>はすぐわかる、という ※2。

次に、<私はそれはめっちゃいいことだと思ってやっぱり、当然やろうぜって言ってる>に注目しよう ※3。第一回の分析の中でも示した通り、millnaさんは【1. ギャルのテンション】(=明るくなくて、どっちかっていうと病んでるけど、一切それを表に出さない、それでもウチらはギャルをやるっていうテンション)のことを<良い文脈>と呼び、リスペクトしている。第一回での「ぴえんノリ」の事例で示されたように、「ギャル文化」は、ツラい時でも、「病みを表に出さずに、軽いノリに変換する」ことを可能にする。millnaさんは、自身の経験から【2-1. 重いノリ】はハッピーにつながりにくいと考えており、ツラい時でも明るく生きようとする【2. 軽さへの意志】を重視していた。

それゆえ、millnaさんは、「ギャル文化」を広めることに対して肯定的である。millnaさんは、「ギャルをやる」ことを<めっちゃ良いことだと思って>いるし、だからこそ「(ギャルを)やろうぜ」って言っている。もちろん、「ギャルをやることは良いことだ」という価値観はmillnaさん個人のものに過ぎないわけだが、実際に自分の影響でギャルをやっているファンの人を見た時に、<めちゃハッピーそう>であった、という事実が、millnaさんにとって、"仮説の裏付け"として機能している。


「善の観念」と「誠実さ」の両立

ここの語りの構造自体が、millnaさんの信念と誠実さのバランスを表していると言えるだろう。

一般に、対人支援が対人支援として成立するためには、いくつかの必須要素がある。そのうちの一つは、「何が相手にとって今よりも良い状態なのか?」を想像する時に基盤となる価値観である。何が今よりも「良い」状態なのかについての想定がなければ、支援などできないからだ。一般にこれを善の観念と呼ぶ。

millnaさんにとっては、【1. ギャルのテンション】へのリスペクトが、善の観念を形作る重要な要素になっているのだが、この語りを読むと、millnaさんの善の観念(=「ギャルをやることはいいことだ」)と誠実さ(=「何が相手にとってハッピーなのかを決めつけることはできない」)が衝突していることがわかる。

millnaさんにとって、「ギャルをやることは良いことだ」という価値観は、millnaさんの実践を支える非常に根幹的な価値観であり、なかなか翻したりできないものだろう。しかし、millnaさんは、自分の影響でギャルをやっている人について言えることは、「私にはハッピーそうに見えた」という事実までであり、「本当にその人がハッピーなのか」については言及できない。※4

この語りの中で、millnaさんは、自身の善の観念と、他の価値観に開かれていることの両立を図っていることを指摘しておこう。この語りの中で、millnaさんは、「ギャルをやることはいいことだ」という自身の信念を維持する一方で、相手が自分とは異なる価値観を持っている可能性を捨てないというオープンさの両方を示している。このように、互いの精神の自由を担保しつつ、相手の複雑性を切り捨てない姿勢は、millnaさんの語る「誠実さ」の一貫した特徴になっている。


なぜYoutubeなのか?

さて、この後の語りを見ていこう。筆者は「ギャルの文脈を手渡していく上で、意識していること」について尋ねた。そこで話題になるのがYoutubeというメディアの特性である。millnaさん曰く、YouTubeは、<このインターネットで、神様じゃなくて、友達として存在できる一番良い方法>だという。Twitterだと、<コンテンツ>になってしまうし、インスタグラムでも、<神様>になってしまう。それと比べて、Youtubeは、一番<私が人間であることが伝わる>メディアだという。

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<コンテンツ>や<神様>ではなく、<友達>として見られていることの具体的な事例として登場するのが、実際に会ったファンの方から、『millnaさんを見ていると若い頃の自分を思い出して、「アーッ!」ってなるけど好きです』って言われた話である。

ものすごく想像できる感覚だし、アーッってなるのも好きになってくれたのも両方リアルなんだと思う。
(ありがとうございます LOVE)

で、それ以来、なんか私の愛され方って結構本当にそうだったりするのかも…?なんてことを時々考えている。
「キャラクターじゃない。人間扱いしてくれ!」なんてわざわざ言わなくても、みんなわりと普通に、アイドルの人とか芸能人とかそういう独特の立場にいる人たちのことも、「人間」として見てるんじゃないか、というか…。

millna 「あなたを見てると若い頃の自分を思い出してアーッてなるけど好きです」がうれしかった話

おそらく、そのファンの人は、millnaさんに、若干の「痛々しさ」や、「昔はこういうことあったなという感覚」を覚えつつも、millnaさんの「ファン」として、millnaさんに会いにきている。millnaさんのいう、「コンテンツ」ではなく「友達」として見られるとは、このような「痛々しさ」などの感覚と、「好き」という感覚が両立しながらも愛されているという状態のことだろう。

<コンテンツ><神様><キャラクター>など、色々な表現が登場するが、ここで一貫して主張されているのは、複雑性を排した存在として見られてしまうことへの忌避感だ。millnaさんはコンテンツとして消費されやすいポジションでもあるし、カリスマとして崇拝されてしまいやすいポジションでもある。このどちらにも陥らず、色々な側面がある一人の<人間>として見られるような発信をmillnaさんは心掛けているようだ。一人の人間の中の複雑性を無視しない、という観点は、millnaさんが他の人について語る時にも意識していることが語り全体から読み取れた。


テーマ5-2: "ウチらの小さい天国"

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次の語りは、カワイイカルトのことを<ウチらの小さい天国>と表現していることについて、筆者が尋ねた箇所である。この語りには、「わかる」や「知ってる」という表現が多くの箇所で登場しており、millnaさんの対人関係に関する考え方が非常によく現れている。

[ブロック3: ウチらの小さい天国]
筆者 (カワイイカルトのことを)「ウチらの天国」みたいな表現されてるじゃないですか。ちょっと詳しく伺ってもいいですか?
millna あー、これーはなんかまあそのままの意味ではあるんですけど、なんかみんなにはわからないと思ってるんですよ。なんかさっき、生きづらさはみんな抱えてる、って言ったのとちょっと相反するんですけど、多分、その、生きづらさはいっぱいあるけど、種類はいっぱいあって、自分のなんか、その、ピンポイントっていうか、自分の、しんどさをシェアする気はあんまりないんですけど、なんかどうせみんなにはわからないし、多分みんなが理解してくれるわけじゃないっていうのを、多分もう知ってるんですよ、みんな自分の人生でだから、なんか、わかる、わかるウチら、っていうか、優しく生きようぜってなったウチらは、ウチらの、小さい天国を作ろう、っていうので小さい天国っていう言い方をしてます。多分、そう、メジャーに対抗、メジャーに対抗ってわけじゃないけど、みんな大好きコンテンツ、みんなハッピーみたいなことは私にはできないし、と思ってるので、そういう言い方をしてます。
筆者 天国っていうのはなんなんだろうなって思ったんですけど。
millna  天国はなんか、めっちゃハッピーな、苦しみのない自由、やったーみたいな。多分そんなにそこは深く考えてない表現ですね。
筆者 なるほどね。さっきおっしゃってた、「みんなにはどうせわからないってことは知ってるだろう」っていうのが面白いと思ったんですけど、もうちょっと詳しく聞いてもいいですか?
millna あー、なんていうのかなー、んー、まあシンプルに、私だったら、そのことを知ってるし、なんか、「知ってるよね」で通じるよなっていう、信頼っていうか、なんか信頼じゃないけど、「知ってるよね」って思います。で、「知ってるよね」で通じる人に分かればいいなって思ってるかもしれないです。1から10まで説明しないと分からないんだったら、それはもう違うから。


【10. ウチら】と【11. みんな】

さて、まずは<ウチら>と<みんな>という単語が対比して使われていることに着目する。この2つの単語には対比関係があるようだ。一旦語りの中で登場する対比関係をまとめてみよう。

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<どうせみんなにはわからない>からこそ、<わかるウチら>で小さい天国を作ろう、という対比関係があるようだ。【11. みんな】にはわからないが【10. ウチら】にはわかることは何か?

この語りで出ている論点は2つある。

1つ目の論点は、生きづらさである。自分のしんどさをシェアしたところで、どうせ<みんな>にはわからない、なぜならば、誰もが生きづらさを抱えているものの、一人ひとり種類が異なるからだ、という達観した考えがここでは語られる。これには、millnaさん自身が、自分のしんどさを語った時にネットで辛辣な意見が書かれたという経験もあるのかもしれない。全ての人が、自分のしんどさを理解してくれるわけではない。そのことを、「みんな自分の人生で知っている」とmillnaさんは言う。このように、【10.ウチら】とは、「生きづらさでは分かり合えないこと」を「知ってる」人たちである。

2つ目の論点は、コンテンツの好みである。millnaさんは<みんな大好きコンテンツ、みんなハッピーみたいなことは私にはできない>と語る。millnaさんは、自分の作るコンテンツが、【11. みんな】の好みに合致するものではないと考えている。(実際、カワイイカルトは、メジャーなカルチャーというよりは、サブカルチャーに属するだろう。)

カワイイカルトのドレスコードは「あなたにとってのカワイイ」であった。この表現は、自分の「カワイイ」が、<みんな>にとっての「カワイイ」であるとは限らないことに自覚的だ。【10. ウチら】は、【11. みんな】には理解されないような「カワイイ」でも、お互いにそれの良さを讃え合い、盛り上がれることを「知っている」人たちだ。自分にとっての「カワイイ」を着て、パーティに来て、盛り上がること。それができるのが【10.ウチら】の空間である、ということになるだろう。

まとめると、【10. ウチら】とは以下の特性を持つ人たちである。

1. 「生きづらさでは分かり合えないことを"知っている"」人たち
2. 「【11. みんな】には理解されないような「カワイイ」でも、お互いにそれの良さを讃え合い、盛り上がれることを"知っている"」人たち


分析テーマ1の語りで、millnaさんは、「自分に憧れてギャルをやれてる人を見ると、<私の文脈がそこにあること>はすぐわかる」と語っていたが、【10. ウチら】の間の関係は、互いに"振る舞い"を通して「そのことを知っていること」を示し合うことで成立する。この点は、分析テーマ5-4で詳しく分析していく。

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"小さい"ことの意味

次に、「ウチらの小さい天国」という言葉の"小さい"に着目して分析してみよう。"小さい"とはどういう意味なのだろうか? なぜ、天国は「小さい」必要があるのだろうか?

先に結論から述べれば、この語りにおいて、"小さい"は、【11. みんなに理解してもらう必要がない、ということを意味している。

"メジャー(なコンテンツ)"の言い換え表現として、millnaさんは<みんな大好きコンテンツ>という表現をしていることから、millnaさんは【11. みんな】が理解可能であることを"メジャー"と呼んでいるのだと読み取れる。"小さい"という単語は、この語りの中では"メジャー"の対義語として使用されているので、”小さい”とは、【11. みんな】が理解可能ではないこと、そもそもそれを目指さないことを示す単語として使用されているようだ。

カワイイカルトは、"小さな"天国を目指す。すなわち、元から「わかっている人」だけで構成された、「内輪」の集団を目指すのであって、<わからないみんな>に無理に理解を求めようとしない。あくまで、<わかるウチら>の天国を目指すのだ。

<1から10まで説明しないと分からない>人、<「知ってるよね」で通じない>人は、【10. ウチら】ではない。<「知ってるよね」で通じる人に分かればいい>のであって、わからない【11. みんな】に理解してもらう必要なんてない。


ここでも【7. 周囲の目線】への抵抗、という前回の記事で扱ったテーマと同じテーマが繰り返されていることを指摘しておきたい。

"メジャー"であることを目指せば、当然、自分たちの「コンテンツの好み」を理解しないような【7. 周囲の目線】にも晒されることになる。実際、「カワイイカルト」の写真を目にした時に、「理解できない」と感じる人は少なくはないと思う。millnaさんたちが抱えている"愛"は、常にこのような理解のない【7. 周囲の目線】に晒されている状態にあると言える。

逆に、"マイナー"なコミュニティであることを【11. みんな】にアピールして、コミュニティの存在意義に理解を求めることも目指さない。【11. みんな】に対して、我々が"マイノリティ"であることとアピールしていけば、また別の問題が発生するからだ。それは例えば、「他の人には理解してもらえなかったけど、あの人たちなら私の生きづらさをわかってくれるのではないか」という期待をコミュニティの外側からかけられることだったりする。

【10. ウチら】は、このどちらの圧力にも与しない。"小さい"こと、つまり<みんな>に理解される必要がないことは、どちらの【7. 周囲の目線】からも、コミュニティの内部を守る。"メジャー"を目指さず、"小さな"パーティであることが、【2-1. 重いノリ】に陥らず、参加者一人一人が自分にとっての「カワイイ」を表現できる場を可能にしている。

この割り切りはmillnaさんの実践の非常に特徴的な点であり、次回以降の記事で考察していく。

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テーマ5-3: カウンセリングとの対比

【10. ウチら】の概念について分析が終わったところで、再びブロック1の語りに戻って、続きを読んでいこう。millnaさんの"誠実さ"について、筆者がカウンセリングを対比に持ち出して尋ねた箇所である。

[ブロック1(続き): 自分のことしかわからない]
millna
 ...なんか、シンプルに、自分のことしかわからないじゃないですか、絶対に。だから、自分のことしかわからないのに、自分の話以外絶対にできないし。っていう感じですね。
筆者 そうなんですよね。どう聞こうかな、これ。いわゆるカウンセリングとかの業界って、この当たり前のことが通じない環境なんですけど。
millna まあ、そうかもしれませんね。それ(=自分の話しかしない)をその、カウンセリングの業界がやってしまうと、あの、逆にみんな困ると思うので。逆に。

(中略)

millna (私も)カウンセリングを受けたことはあるんですよ。で、その時に感じたのが、カウンセリングって、やっぱりその、私は自分自身に対して話しているのに対して、カウンセリングはやっぱりその診断するじゃないけど、人をわからないといけないわけじゃないですか。その人を。ってなると、やっぱりその、分類する必要が出てくると思うんですよ。私はね。で、カウンセリングの時に感じたのが、やっぱりその、相手が私を分類しようとしているのをすごい感じたんですよ。それが結構、なんか、必要なのはわかる。けど、なんか、何か違う方法があるような気がして。
筆者
その違う方法っていうのが、なんかすごくテーマになるだろうなと思っていて。(中略)「ウチら」って言葉はそこにすごく効いているのかなと。
millna あー。そうですね、なんかそのいろんなその、私の態度が、私はそれ(態度)を相手によってずらすことはしないんですよ。私は、こうやるから、通じないなら、よそ行け。みたいな。うふふ。だからその、残っていく人たち、が当然現れるよな、と。もちろんその、どっか行ってしまう人もいるわけですけど。その結果なのかなぁ。多分、ある程度コミュニケーションの取り方だとか、人への理解度が似てきたりするような気がするので。...

ここでは、筆者がmillnaさんの実践の比較対象としてカウンセリングを持ち出して尋ねている。これは筆者がインタビュー時点でオンラインカウンセリングサービスの会社に属していたという個人的事情に依るものである。

millnaさんの倫理観について分析する前に、まず、一般的なカウンセリングの倫理観について、解説しておこう。

話を単純化するために、医療領域で行われる心理カウンセリングに話を絞ろう※5。基本的には、カウンセラーは、明らかに自分の専門外のクライアントのケースを除き、できる限りはどんなクライアントであろうと対応するべきである、と教育される ※6。カウンセラーは、クライエントが抱えている問題を心理学の理論を用いて鑑別し、その問題の種別に合わせて、適切な対応に切り替えることが仕事上求められる ※7。例えばADHDと自閉症では、処方すべき薬や、訓練すべき内容が異なるわけで、異なる症状に対しては、当然、異なる対応をしなければならない。優しい態度で関わることが必要なクライエントには優しい態度で関わり、厳しい態度で関わることが必要なクライエントには厳しい態度で関わる、というのがセラピストに求められる資質であろう※8。

さて、上記の内容を踏まえた上で、ここで語られているmillnaさんの実践と、カウンセラーの実践の対比について、表にまとめた。

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まず、話す内容について。カウンセラーは、「クライエント(=カウンセリングを受ける人のこと)について話をするのが仕事であるのに対し、millnaさんは、「自分の話しかしない」と決めている。millnaさんがyoutubeで自分のことについて話すのは当たり前であるが、カウンセラーが、カウンセリング中に、カウンセラー自身の悩みや考えについて延々と話しているならば、職務放棄と受け取られるだろう。

次に、相手ごとの態度について。カウンセラーは、相手によって対応を変えることが求められるのに対し、millnaさんは、<私はそれ(態度)を相手によってずらすことはしない>と語る。millnaさんの価値観や態度は、youtubeで話している時も、対面で話している時も、だいたいずっと一貫している ※9。millnaさんは、いつ、どこで会っても、同じ態度・同じスタンスのmillnaさんなのだ。

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これは、価値観や態度のマッチングの手順の違いとしても解釈できる。カウンセラーは、クライアントがカウンセリングを訪れた場合、クライエントを<分類>することを通じて、その人の状態を判断し、それに合わせて自分の対応を変化させる。それに対しmillnaさんは、youtubeなどで「私のやり方」を明確に提示し、それを見て合うと思った人だけが残れば良い、という手順を取っている。カウンセリングにおいては、「判断」の責任はセラピスト側が負っているのに対し、millnaさんのやり方においては、「判断」はお客さん側に委ねられている。

さて、これらの違いの背景にある、millnaさんの倫理観について考えてみよう。根本的な違いとしてmillnaさんが指摘しているのは、millnaさんは、(究極的には)「自分のことしかわからない」と考えているのに対し、カウンセラーは「他人をわからないといけない」という点だ。カウンセラーという仕事は、一人一人のクライアントに合わせて対応を変えなければならない。だが、そのためには、クライアントを<分類>する必要がある。millnaさんはこの<分類>に対して忌避感を示している。

さて、millnaさんはなぜ<分類>に対して忌避感を示すのだろうか? その疑問について考えるには、もう少し他の事例も見なければならない。


テーマ5-4. 「中指を絶対立てないポーズ」

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次の語りは、ブロック1の語りの続きであり、millnaさんがチェキ会に来てくれた女子高生との思い出について語ったシーンである。今までの語りとは打って変わって、この語りには<全部伝わってる>という言葉が含まれている。この事例を分析しておくことで、millnaさんの語りにおける「伝わる」の意味を確認しておこう。

[ブロック1(続き): 自分のことしかわからない]
millna ...多分、ある程度コミュニケーションの取り方だとか、人への理解度が似てきたりするような気がするので。
筆者 これが上手くできたなっていう瞬間で、具体的に覚えている出来事ってあります?(中略)例えば、こういった発言がすごい印象に残っているなとか、こういった話題が出たとか。
millna あーー。なんか、今パッと浮かんだのが、ラフォーレ原宿でチェキ会やった時に来てくれた女子高生のことがパッと今思い浮かんだんですけど、なんか、(中略)チェキを撮るので、「ポーズどういうのがいいですか?」って言ったら、なんかこう「これしてください」って、変な指、なんかグアシみたいな変なポーズをするんですよ。だから、え、なんだこれと思って、(指定されたポーズを)して、写真撮って、そのあと「なんですかこのポーズは」って聞いたら、なんか、中指だけを折り曲げたポーズなんですねそれが。でなんか、「中指を絶対立てないポーズです」って言われて、なんか、私それ聞いた瞬間、なんかめっちゃ感動した。あ、なんかわかってくれたんやな、わかってくれてるんやなって思ってめっちゃ感動して。そう。なんかその、全てじゃないですか、なんかそのチェキ会とかなんか、「一緒に写真撮ろー」でそのポーズが出てくる感じとか。なんか、全てだなぁと思って。なんか「うおお」ってなったのを今なんか思い出しました。(中略)そう、本当になんかあれは、良かった。なんか、良かった。
筆者 どう思いました、それで。
millna 私は、なんか、なんか結構私反応が遅いタイプなので、なんかその場、その場では「えーマジ最高じゃん」とかなんか、言って終わったんですけど、結構そのあと結構ジワジワ感じて、感動して、なんか、「伝わってる〜!」と思って。うふふ。マジいま話してても思ったんですけど、やっぱり、全部じゃないですか。全部伝わってるじゃないですか。そう、全部伝わってるなぁって、うふふ、そう。

22歳_ラフォーレ原宿へ私のブランドが期間限定出店

22歳_ラフォーレ原宿へ私のブランドが期間限定出店2

(22歳・ラフォーレ原宿への出店)

millnaさんの感情が昂っていて読み取りづらい語りだが、少しずつ読み解いていこう。<その、全てじゃないですか、なんかそのチェキ会とかなんか、「一緒に写真撮ろー」でそのポーズが出てくる感じとか。なんか、全てだなぁと思って。>に注目する。

ポイントになるのは、チェキ会にやった時に来てくれたmillnaさんのファンの女子高生の、一緒に写真(チェキ)を撮るタイミングで、写真のポーズとして「中指を絶対立てないポーズ」を指定する、という振る舞いが、millnaさんにとって、全てを"わかってくれている"振る舞いだった、という点だろう。

繰り返しになるが、millnaさんにとって、ギャルとは、「どうせ世界はツラいけど、それでもウチらは明るく生きよう」としている人たちだったことを思い出そう。

millna 私の思うギャルって(中略)結構病んでるんですけど、一切それを表に出さない、それでもウチらはギャルをやるっていうテンションが私の中でのギャルなんですよ。

このようなmillnaさんのメッセージに対して、女子高生の対応は完璧な応答になっている。(言語化するのも野暮であろうが)解説しておくと、millnaさんと一緒にチェキを撮ることになった時に一緒に"絶対中指を立てないポーズ"を指定する、ということは、millnaさんとその女子高生は、「どんなにツラい時でも、ウチらは明るく生きようぜ!」という連帯の仲間であること、まさに"ウチらはギャル仲間"であることを示す印を写真に収めようとする行為だと言えよう。


だが、それよりも注目したいのは、この語りでmillnaさんは<わかってくれてる><全部伝わってる>という表現を使うことができている、という点だ。

前の箇所で、millnaさんは<なんか、シンプルに、自分のことしかわからないじゃないですか、絶対に>と語っていた。また、youtubeを見て感想をくれた人については、「(自分のメッセージが)通じた人」という表現を避けて、<「通じた」って言ってくれている人>という表現を使っていた。ここの違いにあるものはなんだろうか?

結論から述べれば、millnaさんにとって、「わかる」「伝わる」という言葉は、発信者側から受信者側への判定、すなわち「この人は私のことをわかってくれている」「私のメッセージがこの人には伝わっている」という向きでは使用できるが、受信者側から発信者側への判定、すなわち「私はこの人のことを分かっている」「私にはこの人のメッセージが通じた」という向きでは使用できない単語だということになる。私のことをわかるのは私だけである以上、私のことがわかっているのかどうかを判断できるのも私だけだ。受信者が口で「通じた」と言っていても、それはあくまで「通じたと言っている」に過ぎない。

それゆえ、受信者側がやるべきことは、「あなたのことがわかりますよ」と口に出すことではなく、"分かっている"と行為で示すことである。この時起きたことを、millnaの視点で整理しておこう。

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millnaさんは、millnaさんなりの「ギャルの文脈」を元から知っているわけだが、女子高生が出してきた「中指絶対立てないポーズ」という"振る舞い"の持つメッセージが伝わったことで、その女子高生の振る舞いの背景に、millnaさんが語ってきた「ギャルの文脈」が存在していることに気づいた。このように、特定の"振る舞い"を活用することで、「あなたが知っていることを私も知っている」と示すことができる。

このルールは【10. ウチら】にも適用されている。【10. ウチら】とは、【10. ウチら】のこと(ルールやテンション)を"分かっている"ことを、行為で示し合う間柄であるからだ。

[(再掲)ブロック1: ]
筆者 なるほどね。さっきおっしゃってた、「みんなにはどうせわからないってことは知ってるだろう」っていうのが面白いと思ったんですけど、もうちょっと詳しく聞いてもいいですか?
millna あー、なんていうのかなー、んー、まあシンプルに、私だったら、そのことを知ってるし、なんか、「知ってるよね」で通じるよなっていう、信頼っていうか、なんか信頼じゃないけど、「知ってるよね」って思います。で、「知ってるよね」で通じる人に分かればいいなって思ってるかもしれないです。1から10まで説明しないと分からないんだったら、それはもう違うから。

【10. ウチら】は、お互いに「(あなたも)知ってるよね」という期待を投げ合い、そして、お互いに"わかっている"ことを行為で示す。"分かっている"ことを示し合う応答によって、【10. ウチら】の関係は紡がれる。

知っている知識を言葉で並べたところで、それは【10. ウチら】であることの証明にはならない。【10. ウチら】のことを"わかっている"かどうかを判断するのは、自分ではなく、それを見る相手側である。

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さて、ここまできて、millnaさんはなぜ<分類>に対して忌避感を示すのか?という問いに答える準備が整った。

繰り返しになるが、私のことをわかるのは私だけである以上、私のことがわかっているのかどうかを判断できるのも私だけだ。(millnaさんの語る)カウンセラーは、「あなたのことが分かっていますよ」と主張し、「あなたに合わせた対応」をするわけだが、結局のところ、それはカウンセラーが「あなたに合わせた」と言っているに過ぎない。カウンセラーの「あなたに合わせたと言っている対応」が、本当に私に合っているのかを判断できるのは私だけなのである。

その意味で、<分類>は「私のことをわかるのは私だけである以上、私のことがわかっているのかどうかを判断できるのも私だけ」というmillnaさんの中の「誠実さ」を一歩踏み越えるものである。millnaさんは、このようなカウンセラーのやり方について、否定はしないものの、millnaさん自身は「違うやり方」をしたい、と考えているのだろう。


結論

今回は、Youtuberであるmillnaさんの"ギャル"ならではの倫理観について分析してきた。考察は次回以降に回すが、ここまでの分析内容をまとめてみよう。

millnaさんは、「自分のことしかわからないのだから、自分の話以外絶対にできないし、それが誠実さだと思っている」と語っていた。millnaさんは、「私のことをわかるのは私だけである以上、私のことがわかっているのかどうかを判断できるのも私だけ」だと考えており、実践の中では、できる限り<分類>を避けることができる方法を選択している。

その一方で、millnaさんは「ギャルをやること」を良いことだと思っており、自身のファンに向けて「(ギャルを)やろうぜ」と言っている。Youtube上で、「昔の私に対して話しかけている」という形式で、millna式の「ギャル文化」を発信している。実際にその発信内容を「拾って」くれる人が多く存在しており、millnaさんに救われた、という声をファンレターなどで届けてくれる人も数多くいる。そのような意見の内容を見て、millnaさんは、<めちゃハッピーそうやから、良かったーって思って>いる。このような、「決めつけを避けつつ、自分が良いと思うものを広げていく」という形式は、millnaさんの実践と倫理観のバランスを特徴づけている。

millnaさんは、心理カウンセラーのように態度を相手によってずらすことはしない。心理カウンセラーとして働く場合、相手(の診断名や症状)に合わせて対応を変えることが求められるが、millnaさんは、基本的には常に一貫した態度を取る。millnaさんは、「昔の私」を含めた、「わかるウチら」に向けて発信しており、「わからないみんな」に合わせて対応や発信内容を変えたりはしない。心理カウンセラーは、相手の状態を判断し、相手の状態に合わせた対応を取っていることに責任を負うが、millnaさんの場合、millnaさんの「やり方」が合うかどうかの判断は、それを観るお客さん側に委ねられている。

個人的な感想ではあるが、このようなmillnaさんのあり方は、心理カウンセラーなどの対人支援職の仕事を捉える上でも非常に参考になると言えるだろう。次回の記事では、これまでのmillnaさんの実践を振り返りつつ、医療における対人支援とどのような違いがあるのかについて、特に「サブカルチャー」という観点から考察していく。

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※1 この第4回の記事の執筆中に、millnaさんが自身のYoutube上で「私はギャルになれない」を公開し、動画中で「ドールギャル」を名乗るのをやめる、と宣言した。この件に伴って、millnaさんを「ギャル」として分析することについての私の立場を書き添えておく。
 この動画の趣旨は、millnaさんがギャルを自称するのをやめるということだろう。あくまで、筆者がmillnaさんをギャル(文化の一員)と認識して分析することに問題はないと判断した。
 この件を考える上で参考になる概念として、米国の社会学者ハーヴェイ・サックス(Harvey Sacks)が提唱した「成員カテゴリー化装置」があるだろう。簡単に言えば、あるカテゴリー(この場合は"ギャル"というカテゴリー)の"正当な"一員であるかどうかを決める権利が、特定のカテゴリーを担う成員に対して優先的に配分されている、という指摘だ。

たとえば,「大人」は、他の成員に対して、「まだまだ子供だ」とか「大きくなったな」とかいう評価を下すことができる。(中略)もちろん、「子ども」や「老人」カテゴリーを適用されうる成員が、「私はもう大人だ」あるいは「私はまだ若い」と自分で言うこともできる。だが、そうした自己評価の正当性を認める権利は、やはり「子ども」や「老人」自身ではなく、「大人」に優先的に与えられているのである。

鶴田幸恵「正当な当事者とは誰か」

 私の私見ではあるが、millnaさんが動画中で語っているのは、「millnaさんには、自身が正当なギャルであるかを判断する権利がない」ということであって、「millnaさんがギャルではない」ということではないと思う。要するに、millnaさんは、私が自分のことをギャルと呼ぶのは、14歳の男子が「俺はもう大人だ!」と主張しているようなものだ、と話したのであって、14歳の男子が実際に大人なのかどうかの話はしていない。
 私がこの分析中で明らかにするのは、millnaさんが語るギャルとは何かであって、millnaさんが世間一般が認める"正当な"ギャルなのかどうかは分析の関心にない。そもそもとして、私はmillnaさんの語るギャル(とそれがmillnaさんの実践にどのような影響を及ぼしているか)が面白いと思って分析を開始しているので、それが世間一般が認めるギャルではないのだとしても、どうでもいいことである。私はあくまでmillnaさんをギャルとして記述するが、その上で、millnaさんが語るギャルが"正当な"ギャルなのかは、他の誰かが判断することであろう。 

※2 millnaさんのファンの人の発信を見ると、しばしば「millnaギャル」という単語が出てくる。ファンの人たちも、自分たちが「millnaさん式の」ギャルであることを意識して発信しているケースがあると思われる。

※3 第二回の注釈でも書いたが、大抵の場合、<やっぱり>という副詞が出てくる語りは非常に重要なことを語っている。私の経験上、<やっぱり>が出てくる箇所では、その支援者が実体験から理解した「その支援がなぜ必要なのかの根拠となる背景構造」や「それ以上遡れないその支援者の根本的な価値基準」を示す重要な語りが出てきやすい。今回の語りもこのパターンに当てはまっている。「ギャルをやる」ことを<めっちゃ良いことだと思って>いることが、millnaさんの実践を支える根本的な価値基準として機能しているのだろうと読み取れる。

※4 ここでも、第二回・第三回で分析してきた「内面と外見の分離」というテーマが繰り返されていることを指摘しておこう。millnaさんは、「本当にハッピーであるか」という他人の"内面"には言及できないが、ハッピーそうに「見える」という他人の"外見"には言及できる。第三回で見てきたように、"見た目"は本人のものであると同時に、他者のものでもある。

※5 実際、医療領域でカウンセリングが行われるケースというのはさほど多くはないが、millnaさんが想定しているのはこのケースだと思うので、このケースに絞った。

※6 もちろん、そもそもカウンセリングの適応ではない人が訪れる場合があり、その場合は他の機関へのリファー(紹介)などを行うことになるが、それでもその判断と紹介まではカウンセラーが担当する責務がある、というのが一般的な臨床家の発想だろう。

※7 心理学的な理論を用いて、クライアントの性格、認知機能の特徴、その人が生きている環境や周りの人との人間関係などについて、情報を収集し査定することを、心理士の業界では「(心理)アセスメント」と呼ぶ。誤解されがちだが、いわゆる素人のカウンセラーと、「プロの心理士」を分けるものは、この「心理アセスメント」のスキルの有無であると言っても過言ではない。病院などで働いている心理士は、カウンセリングを提供することよりも、患者の心理アセスメントを行い、それに基づいて他の医療職にアドバイスすることが仕事の主を占める。心理アセスメントは、心理士にとって重要なスキルなのだ。
 さて、millnaさんが<分類>という言葉を出しているので、ここについてはいくつか補足しておこう。カウンセラーがクライエントを"分類"しなければならないのかについては、心理療法の派閥によって意見が異なるだろう。例えば精神分析の場合、クライエントを精神病か神経症か鑑別する必要があるため、"分類"は必須だと答えるだろう。、神経症の患者には提供してもよいが、精神病の患者に精神分析を提供するのはご法度とされる。一方、来談者中心療法では、立場にもよるが、クライエントの"分類"は不要であると考える人も多い。だが、カウンセリングを提供する前に、そもそもその人がカウンセリングに適合する人なのかどうかをカウンセラーが見極める必要がある、という点については、来談者中心療法のセラピストの人でも、概ね賛同が得られると思われる。

※8 例えば、受容的な態度で関わりながら、クライエントの自己開示を目指していくようなカウンセリングもあるし、本人の中の社会性が弱いようなクライアントに対して、社会性を育てていくために指導的に関わるようなカウンセリングもある。

※9 ちなみに、伝統的には、心理カウンセラーは顔を公の場で出すべきではないと教育されるが、それにはこの点が関わっているだろう。つまり、心理カウンセラーとしての職責を全うしようとすれば、クライエントによって対応を変える必要がある。しかし、公の場で、1:多のコミュニケーションを行ってしまうと、1:1の場になっても、1:多のコミュニケーションを引きずってしまい、適切な対応ができなくなる、という課題感である。

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