傷つけ合う人類への絶望感と自己開示の方法を豊かにすることの可能性について

関西でメンズリブ団体を主催している西井さんが、こんなツイートをしていた。

このツイートを見てから、僕の頭は"ぬいぐるみペニスショック"のことでいっぱいになってしまった。僕の中の経験やツラさにクリティカルヒットしたからだ。

明らかに読み手を選ぶテーマだなぁとは思いつつも、記事を出す順番がこの状態の僕に回ってきてしまったので、このテーマで書こうと思う。

なお、本記事はショッキングな表現が頻出するので、心が軽くなるような内容を期待する人、性的な比喩を苦手とする人はここで読むのをやめてほしい。くれぐれも、読むのは自己責任でお願いします

この記事のねらい

そう、考えるべきは、「どうペニスを見せるか」なのだ!

読者の多くの方は、なに言っていることか全く分からないだろう。
しかし、私はこの「どうペニスを見せるか」という文言に感銘を受けてしまった。

社会問題に立ち向かう時、どこに/どのように問題を設定するか、は極めて重要だが、「ぬいぐるみペニスショック」という現象への切り口は数あれど、優れて的確な問題設定だと思う。

なぜこの問題設定が優れているのか? ということについて、西井さんのツイートを意図的に誤読して、元のツイートの文脈より射程を広げながら、この記事では考えていく。

「ぬいぐるみペニスショック」という現象

まず「ぬいぐるみペニスショック」という現象について考えてみよう。

「ぬいぐるみペニスショック」という表現はかなりショッキングだ。「恋愛感情なしに仲が良いと思っていた男友達」を、害のない"ぬいぐるみ"に例え、その男友達が性的な関係性を持ち出してきたことを、"ぬいぐるみにペニスが生えてきた"と表現するセンス。いささか過激ではあるが、その瞬間の当事者の心境を想像・理解するのに、これほど参考になる表現もあるまい。この表現は色々な問題含みではあるが、個人的な好き嫌いで言えば、この言葉を生み出した人に称賛を贈りたい。

「ぬいぐるみペニスショック」は、単純な加害者-被害者という一方向だけの関係としては捉えられず、何重もの"悲劇"が組み合わさったものとして捉えることができる("悲劇"は、"社会的な問題"と言い換えてもいいかもしれない)。

ひとまず、私からは以下の4つの観点を指摘しておく。(※1)
(男性側, 女性側という表現もいささか乱暴ではあるが、あくまで恋愛感情を表出した側とされた側を示す便宜的な表現として読んでほしい)

1.  男性側が、"ぬいぐるみ"扱いされていること
2. 男性側が恋愛感情を表出すると、嫌悪的に受け取られてしまうこと
3. 女性側が、"性的な対象"として見られて傷つくこと
4. 女性側が、(男)性嫌悪的な感じ方をせざるを得ない社会状況にあること

 上記のリストを見ればすぐ分かるように、「ぬいぐるみペニスショック」は、男性側の生きづらさ問題としても、女性側の生きづらさ問題としても捉えられる。

男性側からすれば、恋愛感情を表出しただけで、嫌悪的/加害的に受け取られることに納得できない気持ちはあるだろう。とはいえ、女性側には、過去に性的な対象として見られて嫌な想いをする経験に何度も会ってきたという背景があるわけで、女性側が恋愛感情を向けられて嫌悪感を抱くことは"仕方ない"(=本人ではなく、社会に責任がある)とも言える。

だとすれば、男性側が恋愛感情を表出することは、他の人を傷つける可能性があるのだから、適切な"配慮"として、男性側が恋愛感情を表出することを規制すべきだ、と主張することはむしろ自然なことだと言える。この場にはセンシティブな人間が居て、そのセンシティブさは本人が悪いわけではないのだから、他の周囲の人間が配慮すべきだ、という主張だ。

"配慮"が表出を封じるとき

だが、問題なのは、上記の"配慮"の主張、すなわち「あなたの感情は、他の人にとって傷つく可能性があるものだから、あなたが自分の感情を表出しようとすることは、"配慮に欠ける"行為であり、抑圧すべきだ」というメッセージ自体が、男性側を傷つけるもの、(あえて言うなら、"配慮に欠ける"もの)だという点だろう。

男性側としては、生まれた時から"ペニス"は生えているわけだ。もちろん、社会の中で普段の暮らしの中では、できるだけ表に出ないように注意するわけだが、男性側としては、決して悪気があったわけではない自己表現であっても、その表現の中に相手を傷つけるものが含まれてしまった場合、"配慮"が足りない、という批判を受けることになる。そこで言われる"配慮"とは、要するに「人を傷つけるような感情は、内心で思っていても表出するべきではない」ということであって、ともすれば、男性側が「お前が自己表現すること自体が、他者への加害性なのだ」というメッセージとして受け取ることもあり得る(というか、現実でよく起こる)。

・・・というのが、メンズリブ運動における主要な問題意識の一つだろう。西井さんとは別のメンズリブ団体の主催をしている「うちゅうじん」さんの以下のツイートは、このような対立の悲しい帰結をよく示している・・・。

自分を表現することが、他人を傷つける

私の友達の小山さんが、この記事「ある属性の生きづらさを吐露すること自体が、他の属性に対する加害になりうる」と書いているが、メンタルヘルスの領域でコミュニティ運営をやっていると、いつも、この手の問題にぶつかる。

私自身、学生時代から、自助会的なものや当事者研究会などの、いわゆる「語り合いの場」の運営をやってきて、このような現象に何度もぶつかり、そのたびに

「もうイヤ、人間って面倒くさい、、、人間がいないところに行きたい、、、」

というキモチに襲われてきた。

どちらも気持ちが傷ついており、どちらもしばしば「その場の運営者が、適切なルール決めや配慮をしなかったこと」に責任を求めてくるからだ。「この場は自分の素直な気持ちを表現できる場だったはずなのに、なぜ自分の素直な気持ちを表現したら責められなければならないのか」と言ってくる人もいれば、「この場は、安心して居られる場だと思っていたのに、あの人の発言に傷ついた。あの人は罰せられるべきだ。なぜあの人の発言を禁止しないのか」と言ってくる人もいる。

そういう時、自分は、海などに出かける元気もなく、だいたい布団に入って、ふて寝する。

そして、布団の中で、「人とつながることが、参加者にとって癒やしになると思って、この会を主催してきたけど、人間と人間なんて一切関わらない方が平和でいいんじゃないんだろうか・・・」となどと考える。

「そもそも、どんな人間だって、多少は加害的な側面を持つのでは・・・? 参加者同士でも、そういう側面ごと相手を受け入れてほしいんだけどなぁ・・・。いや、でもそれがツライから、傷つかずに安全に自分のことを語り合える場を作っているんだっけ・・・? 無理なのでは? 俺は人類には不可能なマボロシを目指していただけなのでは・・・?」みたいなことも考える。

自分以外の全ての人間が"ぬいぐるみ"であればどんなに良いだろう! しかし、他人はぬいぐるみではない。他人が"ぬいぐるみ"でないと安心して話せないからといって、他人を"ぬいぐるみ"扱いすること自体が、他人を傷つけてしまう。

表出される"内容"ではなく"方法"を問え

誰かが自分を表現すると、他の誰かがその表現に傷つく、という状況において、何が正義なのだろう。もうその二人は関わらない方がいいのだろうか。

「表現を許すか、規制するか」、もしくは、「関わるべきか、関わらないべきか」という二者択一に問題を設定すると、思考は袋小路に陥り、考えれば考えるほど暗くなり、果ては、人類に絶望するしかなくなる。(少なくとも私はしてきた。)

だが、問題設定を「どうペニスを見せるか」に置いてみたらどうだろう?

他人がそれを見たらショックを受けてしまうような"ペニス"を持っていたとして、それを持っていないことにすることはできないし、そんなブッソウなものはちょん切れ!というのもできない。ならば、どうやったら、僕らはこのショッキングな"ペニス"を、二人の人間関係の間に、(もしくは、みんなが共にいるこの空間に)、マイルドに置くことができるだろうか?

どのような手順で、どのように表出すればいいだろう? 誰かに協力してもらうことはできるだろうか? 何か効果的な演出はあるだろうか? 比喩表現や、婉曲表現は使えるだろうか? 

モノがモノなので、多少の演出では嫌悪感が薄れさすのはムズカしいかもしれない。嫌悪感は、そういう小手先の表現を変えたところでなんとかなる問題ではない、と怒る人もいるだろう。

だが、この問題設定の素晴らしいところは、男性側も女性側も、(ハードルは高いが)ともに協力し得る問題定義だということだ。

この問題設定は、男女関係以外にも応用できる。話すたびに喧嘩になるサークルの仲間がいて、その仲間のある要素にどうしても嫌悪感が湧く、という時に、その要素を"ペニス"に例えてみよう。その要素が相手の不注意で外に出てしまっても(実際、相手は過去に何度も外に晒してしまっているわけである)、なんとか許せそうな方法や準備はないだろうか? その方法が相手に負担を強いないものであればなお良い。 その方法について、相手とアイデアを話し合う機会はあるだろうか?

おわりに

布団の中でぼんやり考えていたことをだいたい書けたので満足した。本記事は突然におわりに向かう。

私に限らず、メンタルヘルスやマイノリティの問題に関わっていると、人間同士のぶつかり合いに疲れることもあると思う。誰が善いのか悪いのか、誰を許し誰を規制すべきか、という問題設定だけで立ち向かおうとすると、人類の全てが嫌になることもあると思う。私はよくある。

そんな時、私はかねてから「表現の"内容"ではなく"方法"を問え」という主張を繰り返しているのだが、問題設定を「どうペニスを見せるか」に置く、という表現は、(いささか人を選ぶ表現だけれども)アイデアと希望が湧く、ステキで素晴らしい言葉だな、と思った。それが嬉しくてこんな記事を書いてしまった。

後で読み返したら、布団から二度と出たくなくなるかもしれない。どうしよう。

とにかく、困ったら、問題設定を「どうペニスを見せるか」に置く、という発想を思い出してみると、視野が開けることもあるのではないかと思う。ショッキングで覚えやすいし。以上。

追記

この記事を書いた後に頂いた反応について、別記事にまとめたので、よろしければご覧ください。

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※1 西井さんも、以下のツイートで要点をまとめている。


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