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寂しさへのラブレター

大学の精神看護学の授業の中で、WRAP(ラップ)というプログラムを体験する講義があり、その中で「あなたにとって、"いい状態"の時を発表しましょう」というワークをやったことがある。

WRAP(ラップ)とは、Wellness Recovery Action Planの略で、日本では「元気回復行動プラン」と訳される。ざっくりいうと、アメリカの精神疾患の当事者が開発したワークショップ形式のプログラムで、元気に役立つ工夫や、調子が悪くなってきている時に対処するプランなどを考えよう、というものだ。先の質問は、自分の良い時の心の状態を把握することで、自分の心の状態のモニタリングの精度を高めよう、という趣旨の質問である。

学生と教官でグループとなり、自分の"いい状態"の時を発表したのだが、その時の教官が「心が澄んでいて、ちょっと寂しいような気分の時」と発表していた。いや、具体的な発言の文言はおぼろげで、上記で正しかったか自信はないのだけど、"寂しい"という言葉が入っていたことだけは、とても印象に残っている。

自分の"いい状態"を発表する、というテーマにも関わらず、"寂しい"とはどういうことだろうと、最初は理解できず、戸惑った。

しかし、講義が終わった後、しばらくそのことを意識しながら生活を送ってみる中で、すとん、と腑に落ちるところがあった。確かに、自分の場合も、一番心が安定していて、良い状態を維持できていると感じる時は、"なんとなく寂しいような気持ちのとき"だったのだ。

集中力を上げるため、私はプログラムを書くときには、ヘッドホンで音楽を聞きながら作業するようにしている。

音楽には詳しくないので、Amazon Music Unlimitedを起動し、オススメされる音楽をオススメされるままに聞いている。最近気に入った曲は片平里奈「この涙を知らない」である。この曲を聞いていると、仕事が進むのだ。他にも仕事中にヘビロテする曲はあるが、どうも、私の仕事中のテンションにハマるのは、寂しさを歌う曲とか、別れや失恋の曲らしい。

哲学者のハイデガーは、自身の思想において、「気分」に重要な哲学的意味を与えている。その思想をちゃんと理解できてはいないのだけど、ハイデガーの思想をかじるうちに、「寂しい気分に置かれている」とは、自分が、世界に開かれている状態にある、ということなのだ、と思うようになった。"寂しい"時が、一番、頭が澄んでいて、周囲に感覚が開いているような気がするのだ。

"寂しい"時と言っても、"寂しさを受け止められている時"と、"寂しさに襲われている時"があって、今はどっちかな、と考える。自分にとって"いい状態"なのは、"寂しさを受け止められている時"だ。

"寂しさを受け止められている時"は、寂しさから目をそらすことなく、寂しさを感じることができている。自分の心が何かにとらわれておらず、自分の心の中に空白があり、新しいことを受け入れるための適切な余白を持てている。

逆に、"寂しさに襲われている時"は、なんとかして寂しさを感じないようにしていて、何か他に意識を向けられる先を探してしまう(だいたいTwitterなどに手をだす。)その時の自分は、なんというか、"寂しさを感じることへの恐怖"に突き動かされている。

"寂しさを受け止められている時"は、全身の感覚が開き、視野が広がるような気がする。「やらなければならないこと」がない、という状態に、落ち着いていられる。

逆に、"寂しさに襲われている時"は、視野を狭くすることで、なにかから逃れようとしてしまう。やることを探して必死になってしまう。そんな感覚の違いがある。

なんでこんな記事を書いているかというと、本日は同僚の徳田さんの最終出社日だからである。

cotreeの入社時からお世話になっている先輩が去るのは、寂しい。

この"寂しさ"が、ここまでで書いてきたような、私にとっての"いい状態"と関係するのかどうかは、よくわからない。書いているうちに分かるかなと思ったが、よくわからなかった。

だが、この寂しさは、徳田さんの人生と、cotreeに残る私達の人生に、新しいものを受け入れるための"余白"を生み出すために必要なものであり、ちゃんと受け止め、感じていくことが大事なのだろうな、とは思っている。

徳田さんの将来が、よりよき、可能性に開かれたものになることを祈る。


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