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負け方、死に方、変わり方

森見登美彦の小説「四畳半神話体系」の中の、次のセリフがめちゃくちゃ好きだ。

私は負けなかった。負ける事ができなかった。しかし負けていたほうが、私もみんなも幸せになれたに違いない。

森見登美彦※1 は、「腐れ大学生モノ」と呼ばれる小説群をたくさん書いている作家だ。主人公として、イケてなくて、ひねくれていて、プライドが高いが、どこか純真な男子大学生がよく出てくる。

冒頭のセリフは、主人公が、小日向さんという女性にフラれたあと、「黒いキューピッド」を名乗って、たくさんのカップルを破局させる活動を続け、多くの恨みを買いながらも、活動を辞めなかったことへの独白である。

周りの人から見ればただただ迷惑ではあるが、「負けた方が幸せになれる」と気づいていても、生き方を変えられない不器用さが、この作品の主人公の魅力であろう。

「負けた方が幸せになれると分かっていても、負け方が分からない。」

理解できない人はまるで共感できないだろうが、理解できてしまう人にとっては、ものすごく心にグサッと来るテーマではなかろうか。少なくとも、私にとっては、このテーマだけで一晩中話せるくらいには心にくるテーマだ。

変な生き方を選んできた。周りに安易に迎合する、というのが苦手だったし、そもそも周囲の人の気持ちを読み取るのが苦手だったので、周りの期待に合わせたくても合わせられなかった。周囲の意見に流されることができず、かといって自分の正しさを愚直に信じられるわけでもなく、ひねくれた選択を取ってきた。

「周りに合わせたくても合わせられなかった」人にとって、これまでの人生でずっと貫いてきた"生き方"は、最後の砦たる"支え"であり"財産"だと思う。生きていると、どうしていいのか分からなくなるときがある。周囲と同じように振る舞えない時、自分が行った行為が裏目に出た時、そういう自分の選択を支えてくれるのが、"生き方"だ。誰の役に立ったわけではなくても、何を成し遂げたわけではなくとも、自分は今までずっとそう生きてきたのだ、という事実は、自己を支えてくれるだけの強烈な説得力がある。

もちろん、「今までずっと守ってきた生き方が、自分を縛る呪いになることがある」という主張は痛いほど理解できる。まさにそのとおりだと思う。他にも「執着を手放すことでやっと先に進めるのだ」とか、「プライドを手放した先に、幸せが待っているのだ」などといった語り口の経験談も、何度も聞いたことがあるし、聞くたびに感じ入ってしまう。

だが、今までの自分の生き方を手放した時、何を支えにできるだろうか。何が残るだろうか。今までの生き方を手放した未来を考えようとすると、深淵を覗くような恐怖がある。何の保証もない未来の中に、地図もコンパスもないまま置かれるような恐怖。たしかに、"生き方"を変えた先に、"成長"や"幸せ"があるのかもしれない。だが、"成長"とか"幸せ"なんて曖昧なものよりも、不確実な状況に置かれた時に、自分の選択を支えてくれる"生き方"の方が、よほど大事ではないのか。

"今までの生き方を手放す"ということは、並大抵のことではない。

明治維新直後の時代を描いた漫画「るろうに剣心」に、鯨波兵庫というキャラが出てくる。戊辰戦争中に、江戸幕府側の武士として主人公と戦い、右腕を失う。その際、トドメを刺すよう主人公に頼むが、主人公に殺害を拒否され、以後、「武士として生きるために必要な右腕を奪われ、武士として死ぬための機会すら奪われた」という理由で、主人公を恨むようになる。最終的には、主人公への復讐を果たす過程の中で、主人公と、主人公の仲間の弥彦という少年に敗北し、その戦闘がきっかけとなって、改心する。

鯨波兵庫は、誠実な人物であるにも関わらず、なぜ主人公を恨んでしまったのだろう。

彼は、武士としての生き方に強い執着があった人物なのだと思う。彼は、江戸幕府が敗北した後の世界での、武士としての生き方がわからなかった。彼は武士の時代の終わりと共に死ぬことを望んだが、殺してはもらえなかった。武士として生きる道を奪われ、武士として死ぬこともできず、彼は"今までの生き方"を奪った張本人である主人公に執着するしかなかったのだ。

鯨波兵庫が、最後の戦闘で敗北を受け入れたのは、少年の弥彦の姿に、江戸幕府が敗北した後の世界での、武士としての生き様を見たからだった。今まで自分が選んできた、「恨みに突き動かされる」という以外の生き方があるということを示されたことが、彼が敗北を認めるきっかけだったのではないか。

"負ける"とは、そういうことではないか、と私は思う。"生き方"を支えとする人にとって、"生き方"とは、それが自分を縛る呪いだとしても、まるごと投げ出してしまうことはできないものだ。負けを認めた先に、どのような生き方があるのかを示されて、はじめて、人は"負ける"ことができるのではないか、と思う。

たまに、"人生の終わり"について、考える。

私は大学では看護学の研究室に属していたのだが、「終末期がん」を研究領域としている人が周りに多くいた。その時に知ったことだが、日本には、「がん哲学外来」という団体が存在する。以下は、がん哲学外来のホームページに掲載されている、「がん哲学外来とは」の序文の抜粋である。

 多くの人は、自分自身または家族など身近な人ががんにかかったときに初めて死というものを意識し、それと同時に、自分がこれまでいかに生きてきたか、これからどう生きるべきか、死ぬまでに何をなすべきかを真剣に考えます。一方、医療現場は患者の治療をすることに手いっぱいで、患者やその家族の精神的苦痛まで軽減させることはできないのが現状です。

 そういった医療現場と患者の間にある“隙間”を埋めるべく、「がん哲学外来」が生まれました。科学としてのがんを学びながら、がんに哲学的な思考を取り入れていくという立場です。そこで、隙間を埋めるために、病院や医療機関のみならず、集まりやすい場所で、立場を越えて集う交流の場をつくることから活動を始めました。

「がん哲学外来」という言葉のインパクトもさることながら、 ”これからどう生きるべきか、死ぬまでに何をなすべきかを真剣に考えること”を支えるための外来を作る、というアイデアに驚かされた。

がん哲学外来の序文の中では、「がんであっても尊厳をもって人生を生き切ることのできる社会」の実現が謳われている。これからどう生きるべきか、死ぬまでに何をなすべきかを考え、尊厳をもって人生を生き切るために、私達は何を必要とするのだろう。がん哲学外来は、主には臨床心理士や臨床宗教師、患者同士での対話の場を提供するらしい。それは、一体どのような場なのだろう。

人はいつか死ぬ。当然、私もいつかは死ぬ。

正直なところ、まだ私は「自分もいつかは死ぬ」という事実に対して、どう考えればいいのか分からない。いざ自分の人生が終わりに近づいた時に、いかにして"死"と向き合えばいいのか、それはどのような課題なのか。

終末期ケアに関わる人から話を聞くと、がんになる前は「歩けなくなったら、スッパリ死にたい」と豪語していた人が、いざ寝たきりになって死が近づいた時に延命治療を望む事例がとても多いと聞いたことがある。

きっと、死を間近に感じた人にとって、"死に方"とは、今の私が想像をしているよりも、はるかに難しい問いなのだと思う ※2。

そう考えた時、”生き切る”という表現は示唆的だ。終末期のがんの治療の意思決定において、単に寿命を伸ばしたいというよりも、最後まで治療を続けて、それでも死んだなら仕方がない、と納得したいから、という理由で治療の継続が意思決定された事例も聞いたことがある。そこでは、治療は、どちらの選択肢が結果として望ましいかというよりも、最後まで病気と戦い抜いてやるという"生き方"として選択されているように感じた。"生き方"を貫いた先に、"死"を受け止められるようになる、というのは、とても不思議で、とても示唆的なことのように思う。

"他の生き方がある"という感覚も、"生き切った"という感覚も、それは可能性に関する感覚だ。今の自分の手の届きそうなところに、別の可能性が示されているという感覚。今の自分に与えられた可能性を尽くしたという感覚。私達はいつだって、なんらかの可能性の中に生きていて、それは私達を縛ったり、異なる自分に変えたりする。

"負ける"・"変わる"という体験は、新しい可能性を示されることと、可能性を尽くすことの両方の上に成り立つ経験なのではないか、と思う。

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※1 昔から森見登美彦の小説の世界観に憧れがある。高校生の時は、森見登美彦の世界観を参考にしながら、自分で脚本を書いて映画を撮影した。大学生の頃には、小説「夜は短し歩けよ乙女」に出てくる「韋駄天コタツ」がやりたくて、学園祭中に友達をコタツを持ち運んで路上に置いたりした(学園祭実行委員に怒られるので、真似してはいけない)。人が多いところだと見つかるので、農学部の人通りが少ない路上にコタツを出した。原作通り、道行く人にコタツを勧めて会話する、というのもやってみたのだが、通りすがりのとあるご婦人が、鞄の中から数十年前の本学の学園祭のパンフレットを取り出して見せてくれたのが印象に残っている。白黒のコピー本のような見た目だったが、掲載されている地図の形状に見覚えがあって、学園祭(正式名称は五月祭)の歴史の長さを実感した。

※2 鯨波兵庫が"生き方"が分からなくて"死"を望んだキャラだとすれば、漫画の中では、"死に方"が分からなくて"生"にしがみつくキャラもよく描かれる。


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